見出し画像

『孟子』26公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(3)不動心のつくり方

公孫丑は、質問して言った。

「先生が、斉で大臣の地位につき、道を行ったとします。そのことで、先生が、斉を霸王に押し上げたとしても、不思議ではございません。
ですがいざ、それほどの責任を背負うとなれば、さすがの先生も、心が動揺されるのではないでしょうか。」

孟子は言った。

「いや。私は、四十で心を動かさず、だ。」

公孫丑は言った。

「であれば、先生は、怪力で有名な孟賁などよりも遥かに優れておいでです。」

孟子は言った。

「いや、そうたいした話ではない。
告子は、私などよりも先に不動の心を修得している。」
*告子は、孟子と同時期に活躍した思想家。『孟子』の中に登場する人物で、後に孟子と論争を繰り広げることとなる。

公孫丑は言った。

「不動の心を身につけるには、なにか方法はございませんか。」

孟子は言った。

「あるよ。北宮黝(ほくきゅうゆう)の、勇気を養うやり方というのがある。
北宮黝は、なにかで肌を刺されても、肌をたわめず、目を刺されそうになっても、視線を逸さなかった。
そして、一本の体毛であろうと、人に抜かれるような辱めを受ければ、その屈辱を、市場や朝廷で鞭を打たれたかのように思い詰めた。
だから、粗末な服を着た身分の者からは、辱めを受けなかったし、車万乗の君主からも屈辱を受けなかった。
それに、万乗の君主を刺殺するとなっても、やはり、粗末な服を着た身分の者を刺し殺すのと、変わりがなかった。
こんな北宮黝が、恐れる諸侯などいるはずもない。
彼は、なにか悪口を言われただけでも、必ず仕返しをしたということだ。

……そういえば、孟施舍(もうししゃ)の勇気を養うやり方、というのもある。
孟施舍は、こう言ったそうだ。

〈勝てない勝負も勝つと見よ。敵の強さを見定めて進む者、勝ちを確信して敵に当たる者、これは三軍を見て恐れおののくものだ。私だって、必ず勝つとは限らない。ただ恐れない、それだけだ。〉
*三軍とは、古の周の制度に従えば三個軍団、合計3万7500人の兵団を表す。とはいえ、細かい数字に意味はなく、要するに、この当時の大軍を意味する言葉である。

この孟施舍の考え方は、孔子の直弟子で、我らの師匠筋である曾子に似ている。
先ほどあげた北宮黝の例は、同じく孔子の直弟子の子夏に似ている。
この二人の勇気は、いまだにどちらが優れているかはわからない。しかしながら、孟施舍の方が、自分の気概を守ることにつながるだろう。

むかし、曾子は、弟子の子襄(しじょう)に言った。

〈キミは勇敢さを好むのか。
私は、かつて大いなる勇敢さについて、孔子からうかがった。
自ら反省して、正しくない。ならば、粗末な服を着た身分の者にも、私は恐れずにはいられない。
自ら反省して、やはり正しかった。ならば、千や万を敵にまわしても、私は我が道を行こう。〉

あらためて考えてみると、孟施舍の気概を守る考え方というのも……、
やはり曾子の方が、より気概を守るためには、肝心なことをおさえているのではないかな。」

*『孟子』26公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(3)不動心のつくり方

【原文】
公孫丑問曰、「夫子加齊之卿相、得行道焉、雖由此霸王不異矣。如此、則動心否乎。」孟子曰、「否。我四十不動心。」曰、「若是、則夫子過孟賁遠矣。」曰、「是不難、告子先我不動心。」曰、「不動心有道乎。」曰、「有。北宮黝之養勇也、不膚撓、不目逃、思以一豪挫於人、若撻之於市朝。不受於褐寬博、亦不受於萬乘之君。視刺萬乘之君、若刺褐夫。無嚴諸侯。惡聲至、必反之。孟施舍之所養勇也、曰、〈視不勝猶勝也。量敵而後進、慮勝而後會、是畏三軍者也。舍豈能為必勝哉。能無懼而已矣。〉孟施舍似曾子、北宮黝似子夏。夫二子之勇、未知其孰賢、然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰、〈子好勇乎。吾嘗聞大勇於夫子矣、自反而不縮、雖褐寬博、吾不惴焉。自反而縮、雖千萬人、吾往矣。〉孟施舍之守氣、又不如曾子之守約也。」

*現代語訳に満足できず、『孟子』を漢文訓読で読みたいという人はこちら→https://amzn.to/3is9GAf

*この記事の訳は、原則として趙岐注の解釈にしたがっています
*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」
*ヘッダー題辞:©順淵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?