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『孟子』25公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(2)時代の難易度

*前回の孟子と公孫丑の対話はつづく

公孫丑は言った。

「そうおっしゃられますと…、私たち弟子は、先生のおっしゃることを…、さらに疑ってしまいます。
そもそも周の文王の徳をもってしても…、
文王は百歳も長生きして、やっと亡くなりました。結局、天下にその徳が広まることはありませんでした。
次の武王や、武王の弟の周公が、その徳を継いで、やっと天下に徳が広まりました。
今、王者となるのは、いとも容易いように言われますが、では文王は、模範にならないとおっしゃるのですか。」

孟子は言った。

「文王が、どうして……、模範にならないどころか、そこらの王とは別次元の存在だ。

殷王朝は、開祖である湯王から、中興の祖である武丁(ぶてい)まで、賢聖の君主が六代から七代もつづいた。
そのため、天下は殷王朝に服属する期間が長きにわたった。
長らく安定していた情勢を変えることは難しい。逆に言えば、武丁が、諸侯を朝見させ、天下をたもつことは、手の上で転がすように容易かったということだ。
そして、殷の最後の王である紂王は、この武丁の代からそれほど時間が経っていない。そのため、殷の家柄の権威や文化、それに政治的遺産が、なお遺されていたのだ。それに末期の殷に仕えていた微子(びし)、微仲(びちゅう)、王子比干(おうしひかん)、箕子(きし)、膠鬲(きょうかく)…、どれも賢人ばかりだ。
彼らが互いに紂王を助けていたのだから、すぐに殷が天下を失うことはなかった。ゆっくり時間をかけて滅んで行ったのだ。

周の文王が存命していた頃は、わずか一尺の土地であっても、全てが殷のものであった。そして、わずか一人の民であっても、全てが殷の臣下だったのだ。それでも、文王は百里の小さな土地から国を起こしている。それが、いかに困難であったことか。

斉の人の言葉に、こうある。
〈いくら知恵をそなえても、時勢に乗るには及ばない。いくら農具をそろえても、季節を待つには及ばない。〉

我々が生きる今の時勢は、たやすく行うことができる条件がそろっているのだ。
夏、殷、周の全盛期でも、その領土は千里を超える者はいなかった。
しかし、斉はすでに千里を超える領土を有している。そして、鶏の泣き声や犬の遠吠えは、そこら中で響き渡り、四方の国境まで絶え間ない。斉には、すでにそれだけの人口がいるのだ。いまさら、新たに土地を開拓しなくとも良いし、民をさらに集める必要もない。
仁政を行って王者となるならば、これを防ぐことができる者などいない。
それに、王者はしばらく出現しておらず、これほど王者の不在が続いた時代は存在しない。そして、民は暴政に憔悴しており、これほど悲惨な時代も存在しなかった。
飢えた者は、どんなものにでも食らいつくものだし、喉が渇いた者は、どんなものでも飲みこもうとするものだ。
孔子も言っている。
〈徳が広がっていく、早馬や伝令よりも速いではないか。〉

今日、車万乗の大国で仁政が行われれば、民がこれを喜ぶ様子は、まるで逆さ吊りの刑から解放されるようなものであろう。故に、行動は古の人々の半分ほどで、結果はきっとその倍になるだろう。まさしく、今こそがその時機なのだ。」

*以上、『孟子』25公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(2)時代の難易度

【原文】
曰、「若是、則弟子之惑滋甚。且以文王之德、百年而後崩、猶未洽於天下。武王、周公繼之、然後大行。今言王若易然、則文王不足法與。」曰、「文王何可當也。由湯至於武丁、賢聖之君六七作。天下歸殷久矣、久則難變也。武丁朝諸侯有天下、猶運之掌也。紂之去武丁未久也、其故家遺俗、流風善政、猶有存者。又有微子、微仲、王子比干、箕子、膠鬲皆賢人也、相與輔相之、故久而後失之也。尺地莫非其有也、一民莫非其臣也、然而文王猶方百里起、是以難也。齊人有言曰、〈雖有智慧、不如乘勢。雖有鎡基、不如待時。〉「今時則易然也。夏后、殷、周之盛、地未有過千里者也、而齊有其地矣。雞鳴狗吠相聞、而達乎四境、而齊有其民矣。地不改辟矣、民不改聚矣、行仁政而王、莫之能禦也。且王者之不作、未有疏於此時者也。民之憔悴於虐政、未有甚於此時者也。飢者易為食、渴者易為飲。孔子曰、〈德之流行、速於置郵而傳命。〉當今之時、萬乘之國行仁政、民之悅之、猶解倒懸也。故事半古之人、功必倍之、惟此時為然。」

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*この記事の訳は、原則として趙岐注の解釈にしたがっています
*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」
*ヘッダー題辞:©順淵

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