『孟子』告子上175ー孟子の言葉(58)理と義は肉の味

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*前回の孟子の話はつづきます。

 人は口で味を感じるものだ。そして、だれでも、ほとんど同じような味をおいしいと感じる。

易牙(えきが)は、最初に我々がうまいと感じる味を見出した人物である。
もし、彼が口で味を感じたとしても…、
その口の性質が人とちがって、犬や馬が、我々と異なるほどのものであったなら、天下がどうして、だれもかれも易牙の味にしたがうと言うのか。
味について、天下が易牙に合わせたのは、天下の人々の口がどれも似ているからである。耳も同様である。

音程については、天下は師曠(しこう)に合わせたが、これも天下の耳がどれも似たようなものだからである。もちろん、目も同様である。

子都(しと)について、天下でその美しさを知らないものはいない。子都の美しさを知らない者がいるとすれば、目が見えない者くらいだろう。
だから言うのだ。

〈口で味を感じること、誰でも同じような好みがある。
耳で声を感じること、誰でも同じように心地よく聴こえる声がある。
目で色気を感じること、誰でも同じように美しく見えるものがある。〉

そして、心についても、それだけが同様に納得できるものではないないと言うのか。
誰でも、心が同じように感じるものとは何であろうか。私は、それが〈理(り)〉であり、〈義〉だと言うのである。

聖人は、我々の心に感じることを、最初に見出しただけの人物にすぎない。
だから、〈理〉や〈義〉は、我々の心を喜ばせるものであって、ちょうど家畜の肉を我々の口が美味しいと感じるようなものだ。」

*以上、『孟子』告子上175ー孟子の言葉(58)理と義は肉の味

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