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『孟子』72滕文公上―孟子と夷之の対話 墨家批判~赤子を守ること

*この時代、諸子百家のなかでも、大きな勢力を誇る、墨家と呼ばれる集団がいました。
言わずと知れた、兼愛非攻で有名な思想家集団です。
そんな墨家を代表して、夷之という人物が、孟子との議論を求めてきました。

墨家の夷之(いし)という者が、孟子の弟子の徐辟(じょへき)を頼って孟子との会見を求めた。

孟子は言った。

「私の方でも、もとより、お会いしたいと願っておりました。
ですが今、私は病にかかっております。
病が癒えたら、私の方から、あらためてお会いしようと思います。
夷之先生、今は来られませんように。」

後日、夷之は、あらためて孟子に会うことを求めた。
会う前に、孟子は言った。

「私は今こそ、お会いすることができます。
まがっているものを正さなくては、道が明らかになりません。
私は、ですから、貴方のお考えを直そうと思います。

さて、私は、夷之先生が墨家であるとうかがっています。
墨家は、葬儀を行う際に、質素におこなうことを、自らの道とされているそうですね。
夷之先生も、そうすることで天下を変えようとなさっておいでなのでしょう。
墨家である以上、どうして、質素な葬儀を否定したり、尊重しない、などということがあるでしょうか。

ところがです。
夷之先生は、ご自身の親を葬る際には、たいへん手厚い葬儀を行なったそうではありませんか。
これは、あなたがた墨家にとって、賤しいやり方で親に仕えた、ということになるのではないですか。」

徐子(じょし)は、孟子の言葉を、夷子に告げた。
*ちなみに徐子とは、徐辟のことです。

夷子は言った。

「儒者の道において、古の人の言葉に、このようなものがあるとのこと。
〈守ってやること赤子のように。〉

さて、この言葉は何を言いたいのか。
この言葉はつまり、愛する相手に差はない、という意味だと思います。
ですから私は、愛の施しを、まず身内から始めた、というだけのことなのです。」

徐子は、この夷子の言葉を孟子に告げた。
孟子は言った。

「あの夷之先生は、本当に人が、自分の兄の子と親しむことを、他人である隣人の幼児と親しむことと同じように考えているのか……。
彼が言った〈守ってやること赤子のように〉という言葉には、もっと別の意味があるのだ。

赤子がハイハイしながら井戸に落ちそうになったとしても、それは赤子の罪ではなく、親の罪だ。
さて、天は万物を生み出した。
そして、それぞれの事物のモトは、一つしかない。
なのに、夷之先生は、事物のモトが二つあると言うのだ。

思うに、太古の時代、かつて自分の親族を葬らない者がいた。
彼は、親族が死ぬと、その遺体を運んで谷間に捨てていた。

だが後日、その横を通りかかると、狐や狸が遺体を食べあさり、ハエやブヨ、それにケラが群がってむさぼっていたのだ。

彼は、額に冷や汗がにじみ出て、横目でチラリと見るばかりで、親族の遺体を正視できなかった。
冷や汗が出てきたのは、誰の目を気にしたものでもなく、心の内側から、自分の身内の遺体を、このようにしてしまったことに恥じたのだ。

そこで彼は、おそらく、すぐに戻ってモッコや土車に集めた土をひっくり返し、遺体を覆ったのであろう。

遺体を土で覆いかくすことが正しい、とするならば、
孝の人や仁の人が、その身内の遺体を土で覆いかくそうとすることは、やはり、必然的な、有るべき道ということなのだ。」

徐子は、この孟子の言葉を、夷子に告げた。
夷子は、すこし呆然として、しばらくして言った。

「私に大切なことを教えてくれたのだ…。」

*以上、『孟子』72滕文公上―孟子と夷之の対話 墨家批判~赤子を守ること
*『孟子』について詳しく知りたい方はこちら

【原文】
墨者夷之、因徐辟而求見孟子。孟子曰、「吾固願見、今吾尚病、病愈、我且往見、夷子不來。」他日又求見孟子。孟子曰、「吾今則可以見矣。不直、則道不見。我且直之。吾聞夷子墨者。墨之治喪也、以薄為其道也。夷子思以易天下、豈以為非是而不貴也。然而夷子葬其親厚、則是以所賤事親也。」徐子以告夷子。夷子曰、「儒者之道、古之人〈若保赤子〉、此言何謂也。之則以為愛無差等、施由親始。」徐子以告孟子。孟子曰、「夫夷子、信以為人之親其兄之子為若親其鄰之赤子乎。彼有取爾也。赤子匍匐將入井、非赤子之罪也。且天之生物也、使之一本、而夷子二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者。其親死、則舉而委之於壑。他日過之、狐狸食之、蠅蚋姑嘬之。其顙有泚、睨而不視。夫泚也、非為人泚、中心達於面目。蓋歸反虆梩而掩之。掩之誠是也、則孝子仁人之掩其親、亦必有道矣。」徐子以告夷子。夷子憮然為閒曰、「命之矣。」

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