『孟子』離婁下131ー孟子の言葉(46)仁と礼があればよし
孟子は言った。
「君子が人と異なる点は、自身の心をたもちつづけるという点にある。
さて、君子は、仁(じん)によって心を保持する。そして、礼(れい)によって心を保持している。
仁とは、人を愛すること。
そして、礼とは、人を敬うことである。
人を愛する者は、人から常に愛される。
そして、人を敬う者は、人から常に敬われるものである。
さて、ここにある人物がいたとする。
彼が、私に対して、暴虐非道なふるまいをしてきたとしよう。
君子であれば、必ず自分自身に反省するものだ。
私が仁ではなかったのではないか…、
私が礼にもとるようなことをしたのではないか…。
そうでなければ、このような暴虐非道なふるまいを受けることはないはずだ…。
ところがである。
自分自身に反省してみると、やはり仁であったし、さらに自分自身に反省してみても、やはり礼にかなっていた。
それでも暴虐非道なふるまいを受けた…。
そこで、君子であれば必ず、ふたたび反省して、自分に誠意がなかったのではないかと考え、自身に誠意があったかを反省するのである。
だが、自分自身に反省して誠意を込めても、暴虐非道なふるまいを受けてしまったとしよう。
君子であればこのように言うだろう。
〈かの人物は、自分の行いがよくわかっていない妄人(もうじん)であったか。
このような人物であれば、禽獣となんの違いがあるのか。
禽獣に対して、何を非難すればよいというのか。〉
だからこそ君子には、生涯をかけた悩みはあっても、日常の悩みなどは、ないのである。
さて、もし悩むのであれば、こうでなければならない。
舜は人である。
私もまた人である。
なのに、舜は天下に規範を示し、後世に伝わるようにした。
だが、私はいまだに一介の地方人にすぎない…。
これぞまさしく、悩まなければならないことである。
ではこれほどの悩みをどのように晴らせばよいのか…。
それは、ただ、舜のようにふるまうだけなのである。
さて、このように悩める君子には、日々の悩みなど存在しない。なぜならば、仁でないことは行わない、礼にもとるようなことは行わない、というだけの話だからである。
もし日常の悩みごとにさらされても、それは、君子が悩むことではないのである。」
*以上、『孟子』離婁下131ー孟子の言葉(46)仁と礼があればよし
◆全訳はこちら↓
◆音声で聴きたい方はこちら↓(制作途中)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?