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『孟子』30公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(7)孟子は聖人か

公孫丑はたずねた。

「宰我(さいが)と子貢(しこう)は、弁論に優れていました。
そして、冉牛(ぜんぎゅう)と閔子(びんし)、それに顏淵(がんえん)は、徳を実践して、それを人に語ることができた、と言います。

*宰我、子貢、冉牛、閔子、顏淵は、いずれも孔子の直弟子。その中でも最も優れた孔門十哲に数えられる人物たちである。また、この後に出てくる、子夏(しか)、子游(しゆう)、子張(しちょう)も同じく孔子の直弟子、孔門十哲に数えられる人物たちです。

そして、孔子は、これらの才能を兼ね備えておられました。
ところが、このような言葉をのこされているのです。
〈私は、外交儀礼に必要な言語が不得意だ。〉

孔子ですら言語を苦手とされるのですから…、他人の言葉をよく理解できる先生は、聖人なのではないでしょうか。」

孟子は言った。

「うわぁ…、私が聖人とは…。とんでもないことを言うね…。
むかし、子貢は、孔子にこうたずねて言ったそうだ。
〈先生は聖人なのですか。〉

孔子は言った。
〈聖人などと…、私では無理だ。私は、ただ学ぶものに好き嫌いせず、教えることに飽きない…、というだけの人間だ。〉

子貢は言った。
〈学ぶもので好き嫌いしないというのは、智です。教えて飽きることがないというのは、仁です。仁で、さらに智を備えておいでなのですから、先生は聖人でしょう。〉

さて聖人とは、孔子ですらご自身でも無理だとおっしゃったものだ。
まして、私が聖人などと…、何を考えたら、そんな言葉が出てくるのかね。」

公孫丑は、さらにたずねた。

「以前、私はこのようなことをうかがいました。
子夏、子游、子張は、いずれも聖人の一部を備えている。
そして、冉牛、閔子、顏淵は、聖人に必要な全てを備えていた。しかし、ホンモノの聖人に比べると、その全てが小さいものであった、と言うことです。
あえておたずねしますが、先生はどちらなのでしょうか。」

孟子は言った。

「もう、その話は、しばらく置いておきなさい。」

*『孟子』29公孫丑上―孟子と公孫丑の対話(7)孟子は聖人か

【原文】
「宰我、子貢善為說辭、冉牛、閔子、顏淵善言德行。孔子兼之、曰、〈我於辭命則不能也。〉然則夫子既聖矣乎。」曰、「惡。是何言也。昔者子貢、問於孔子曰、〈夫子聖矣乎。〉孔子曰、〈聖則吾不能、我學不厭而教不倦也。〉子貢曰、〈學不厭、智也。教不倦、仁也。仁且智、夫子既聖矣。〉夫聖、孔子不居、是何言也。」「昔者竊聞之、子夏、子游、子張皆有聖人之一體、冉牛、閔子、顏淵則具體而微。敢問所安。」曰、「姑舍是。」

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*この記事の訳は、原則として趙岐注の解釈にしたがっています
*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」
*ヘッダー題辞:©順淵

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