『孟子』万章上146ー孟子と万章の対話(9) 舜禹革命―世襲について

*尭は、自分の息子ではなく、舜に天子の位を譲りました。そして、舜も、禹に譲りました。いずれも世襲ではありませんでした。
ところが、禹の次の代は禹の子どもたちであり、夏王朝が存続することになりました。

万章は質問して言った。

「人々のあいだでは、このようなことが言われています。

〈禹(う)の時代にはいると、徳は衰えた。
賢者に位を引き継がず、自分の子どもに引き継がせたのだ。〉

これは、本当なのでしょうか。」

孟子は言った。

「いや、そうではない。天が賢者に天下を与えたのであれば、賢者に与える。
そして、天が、その子どもに天下を与えたのであれば、子どもに与えるものなのだ。

昔、舜が、禹を天に推薦した。そして、十七年で舜は崩御した。
三年の喪を終えると、禹は、舜の子に遠慮して陽城に身を移した。すると、天下の民は禹に従った。
まるで尭が崩御したあと、天下の民が、尭の子に従わず、舜に従ったときと同じであったのだ。

さて、今度は、禹が、益(えき)を天に推薦した。そして、七年で禹は崩御した。
三年の喪を終えると、益もやはり、禹の子に遠慮して箕山(きざん)の北に身を移した。
ところが…、
今回は、朝見したり、訴訟を起こした者が、益のもとには行かなかった。むしろ、禹の息子の啓(けい)のもとに集まっていた。
人々は言った。

〈我らが君の子よ。〉

そして、歌を謳(うた)う者は、益のために歌を謳わず、啓のために歌を謳った。
そしてこのように歌って言ったのだ。

〈我らが君の子よ。〉

かつて、尭の息子である丹朱(たんしゅ)は、不肖のむすこであった。
そして、舜の子もやはり、不肖のむすこであった。
舜は、尭の宰相となり、禹は、舜の宰相となった。いずれも、歴任した期間が長かった。そのため、恩沢を民に施した期間は久しい。

だが、禹の息子である啓は、賢者だったのだ。
そして、禹の道をきちんと敬愛して、うまく継承した。
益はというと、禹の宰相であったが、歴任した期間は短かった。そのため、民に恩沢を施す期間がそれほど久しいものではなかった。

舜や禹と、益とのあいだには、宰相であった期間にかなりのヒラキがあるのだ。それに、彼らの息子が賢者であるか、不肖であるかは、天のお力だ。人がなんとかできるようなことではない。

なにか作為があったわけでもないのに、なにかが起きるというのは、天のお力だ。
なにかを招こうとしたわけでもないのに、なにかがやって来ると言うのは、天命なのだ。

なんでもない匹夫が天下を保つことがある。
その場合、その人の徳は、舜や禹と同じであった。そのうえで、その当時の天子が、彼らを天に推薦したのだ。
逆に、天子の推薦がないが故に、孔子ほどの人物でも天下を保つことができないということもあるのだ。

では、世襲によって天下を保つ場合はどうか。
その場合、天が、廃位しようとするのであれば必ず、夏の桀王や、殷の紂王といった者たちのようになさるはずだ。
また逆に、世襲であっても、天が廃位しなかったが故に、禹に仕えた益や、殷の伊尹(いいん)、周の周公(しゅうこう)たちのような人物ですら、天下を保つことができなかったのだ。

伊尹は、夏の湯王(とうおう)の宰相として、彼を天下の王者とした。
湯王が崩御すると、太丁(たいてい)が即位する前に亡くなった。そして、外丙(がいへい)は二年、仲壬(ちゅうじん)は四年、即位してからそれぞれすぐに亡くなってしまった。
彼らの後を次いだ太甲(たいこう)は、湯王の法典を破壊した。
そこで、伊尹は彼を、桐(とう)の地に追放した。

三年して、太甲が自分の過ちを後悔すると、自分を責めて自らの修養をこころがけた。そして、桐で、仁にもとづき、義のおこないをこころがけるようになった。
さらに三年して、伊尹がよせた自分への訓戒を、すなおに聴き入れ、亳(はく)の地にふたたび戻ることとなった。

後の、周において、周公が天下を保てなかった理由も、やはり益が、禹の夏王朝においてそうであったように、あるいは伊尹が、殷王朝においてそうであったように、いずれも同じなのだ。孔子は言っている。

〈唐(とう)と虞(ぐ)は、ひとに褝(ゆず)った。
そして、夏王朝、それに殷、そして周は、世襲であった。
だが、その義は一つだ。〉」

*唐は尭、虞は舜を、それぞれ指します。

*以上、『孟子』万章上146ー孟子と万章の対話(9) 舜禹革命―世襲について

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