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『孟子』70滕文公上―孟子と陳相の対話(5)許行批判~夷狄に変ずることをただす

*前回の、孟子の言葉はさらに続きます。

……。
私は、中国によって夷狄が変わったという話を聞いたことがあります。
ですが、これまで、中国が夷狄に変わったという話は、聞いたことがありません。

あなたの師匠である陳良(ちんりょう)どのは、楚で生まれました。
ですが、周公や孔子の道に喜んで、北までやってきて、中国で学んだのです。
北方の学者でも、彼よりすぐれた者はおりません。
彼こそが、いわゆる豪傑の士というものです。

ところが、あなたがた兄弟は、彼に仕えて数十年。
教えをうけながら、師匠が死んだとたんに彼の教えに背いたのです。

昔、孔子が亡くなると、三年してからようやく、門人たちは、荷物をまとめて郷里に帰ろうとしました。そして、喪に服する小屋に入って、子貢(しこう)のもとに集まり、互いに向かいあって、泣きさけび、みな声が枯れて、それからやっと帰郷したのです。
それでも、子貢は、今一度戻り、墓前に居室を造って、ひとり、そこで寝起きをしてさらに三年。それから、ようやく帰郷しました。

後日、子夏(しか)、子張(しちょう)、子游(しゆう)は、有若(ゆうじゃく)が聖人に見た目が似ているということで、かつての 孔子に仕えたように有若に仕えようとしました。
そこで彼らは、曽子(そうし)にも、同じように有若に仕えるように迫りました。
曽子は言いました。
〈ダメだ。孔子は、長江や漢水で洗いあげ、秋の日差しできちんと乾かした布のような方であり、潔白このうえないお方なのだ。〉

さて、孔子の弟子たちは、このように、師匠のこころざしを守るために、争うほどの情熱を持っていたのです。

話を戻しましょう。
今、南蛮のモズのような、喧しい鳴き声で喚き散らしている人物がいます。
彼は、古の王たちの道を否定する人物です。

それなのに、あなた方は、ご自身の師匠のおしえに背いて、あんな人物に学んでいます。
先ほど述べた曽子たちの情熱とは、ほど遠いものでしょう。

私は、薄暗い谷間から飛び出して、高い木にとまる鳥がいると、聞いたことがあります。
ですが、これまで、わざわざ高い木から、薄暗い谷間に降りていく鳥がいるなどと、聞いたことがありません。

『詩経』の魯頌(ろしょう)に、このような一節があります。
〈戎狄を打ち払い、荊舒(けいじょ)は懲らしめねば。〉
*戎狄とは北の夷狄、荊舒とは南の夷狄を指します。

周公は、まさしく、こうした夷狄どもを打ち払ってきたのです。
ところが、あなたは逆に、そのような夷狄から学んでいるのです。
それではやはり、善い方向に変わることはできませんよ。」

*孟子と陳相の対話はまだつづきます。

*以上、『孟子』70滕文公上―孟子と陳相の対話(5)許行批判~夷狄に変ずることをただす
*『孟子』について詳しく知りたい方はこちら

【原文】
「……。吾聞用夏變夷者、未聞變於夷者也。陳良、楚產也。悅周公、仲尼之道、北學於中國。北方之學者、未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年、師死而遂倍之。昔者孔子沒、三年之外、門人治任將歸、入揖於子貢、相向而哭、皆失聲、然後歸。子貢反、築室於場、獨居三年、然後歸。他日、子夏、子張、子游以有若似聖人、欲以所事孔子事之、彊曾子。曾子曰、〈不可。江漢以濯之、秋陽以暴之、皜皜乎不可尚已。〉今也南蠻鴃舌之人、非先王之道、子倍子之師而學之、亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷于喬木者、末聞下喬木而入於幽谷者。〈魯頌〉曰、〈戎狄是膺、荊舒是懲。〉周公方且膺之、子是之學、亦為不善變矣。」

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