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『孟子』35公孫丑上―孟子の言葉(4)惻隠の心と四端


孟子は言った。

「人は、誰しも、他人の不幸をかわいそうだと思う心を持っている。
古の王たちも、他人の不幸をかわいそうだと思う心を持っていたので、その人をかわいそうだと思って政を行っていたのである。

このように、人がそなえている他人の不幸をかわいそうだと思う心によって、人の不幸をかわいそうだと思う政を行ったならば、天下を治めるのは、手の上で転がすようなものとなる。

さて、人は誰でも、他人の不幸をかわいそうだと思う心を持っている、と言ったが、その理由を説明しよう。
今、人が、幼子が今にも井戸に落ちそうになっているのを見れたとしよう。誰であろうと、ハッと驚き恐れる思い(怵惕=じゅつてき)、そして、痛切なまでの他者への思いやり(惻隠=そくいん)が心に起きるものだ。

この思いが心に起きるとき、そこには、幼子の父母の機嫌をとろうとか、地元の友人たちに褒められたいとか、助けなければ後で非難されるからとか…、そんな理由は存在しない。

さて、ここから、人を観察しているとわかることがある。
惻隠の心がない者は、つまり、そもそも人間ではないのだ。
そして、惻隠の心がないことを恥じて憎む心がない者は、人間ではない。
他人にゆずる心がない者は、人間ではない。
ものごとの是非の判断ができる心がない者は、人間ではない。

惻隠の心は、仁の端緒、はじまりだ。
惻隠の心がないことを恥じて憎む心は、義の端緒だ。
他人にゆずる心は、礼の端緒だ。
ものごとの是非の判断ができる心は、智の端緒だ。

人には、この四つの端緒(四端=したん)がある。
人体に両手両足の四体があるのと同じ。
この四端を持ちながら、仁、義、礼、智にしたがった行いができないと自分で、言う者は、自らを傷つける者だ。
そして、自分が仕える君主を、仁、義、礼、智にしたがった行いができない、などと言っている者は、その君主を傷つける者だ。

おおよそ、自分に四端をそなえている者は、この四つ全てを押し広めて行き、満ち足りるようにすれば、それでよい、ということを知っている。
炎があがると燃え広がり、泉が湧き出すと溢れてくるのと同じだ。
もしこれを広げていけば、世界を治めるには十分であろう。だが、これを広げようとしなければ、父母に仕えることすら、まともにできないのだ。」

*以上、『孟子』35公孫丑上―孟子の言葉(4)惻隱の心と四端

【原文】
孟子曰、「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以內交於孺子之父母也、非所以要譽於鄉黨朋友也、非惡其聲而然也。由是觀之、無惻隱之心、非人也。無羞惡之心、非人也。無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。惻隱之心、仁之端也。羞惡之心、義之端也。辭讓之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母。」

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*この記事の訳は、原則として趙岐注の解釈にしたがっています
*ヘッダー画像:Wikipedia「孟子」
*ヘッダー題辞:©順淵

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