『孟子』告子上176ー孟子の言葉(59) 牛山の森は美しかった

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*斉の都、臨淄(りんし)の近郊に、牛山(ぎゅうざん)という山があります。臨淄は、戦国屈指の巨大都市です。そのため牛山は、乱伐により、すっかり禿山になってしまいました。


孟子は言った。

「牛山の木々は、かつては美しかった。
だが、大国の都の郊外にあったがために、オノやマサカリで伐採されていった。もはや、この牛山の木々を美しいと呼ぶことはできない。

さて、この牛山には、日夜、生命を成長させる力はあるし、雨や露が潤す力もある。だから木の芽やヒコバエが生えてこない、ということはないのだ。
ところが、木の芽や草が生えてくるたびに、牛や羊を放牧してしまう。これだから、あのようなツルツルハゲになってしまうのである。

人々は、山がツルツルハゲである様を見ると、〈あの山は昔から、材木なんか取れやしなかったのさ〉と思っている。だが、どうして、これが牛山の性質だと言えようか。

同様に、では、人についても、どうして、仁義の心は無い、などと言えようか。

人がそなえていた良心を捨ててしまう者がいることはたしかだ。
だがそれもまた、オノやマサカリで木を伐採しているのと同じなのだ。
毎日毎日、木を伐採しつづければ、美しい木々と呼べるものはなくなっていくだろう。

人間にも日夜、成長しつづける、夜明けの澄んだ気分がある。
ところが、人間がそなえる、善を好み、悪を憎む、というあたりまえの心にしたがって、賢人に近づこうという者は、ほとんど稀(まれ)なのである。
それは、日中の行動が、夜明けの澄んだ気分をガチガチに縛り上げてしまうからなのだ。

この澄んだ気分を縛り上げて、しかもそれを繰り返していれば、夜に成長する気が足りなくなって、維持できなくなってしまう。夜に成長するはずの気が、足りなくなって維持できなくなれば、もはやその人間は、禽獣とちがいはない。

人々が、その人の禽獣のようなふるまいを見たとしよう。
人々は、彼がこれまでずっと、人間らしい才能をもちあわせていなかった、と考えるだろう。だがどうして、彼のふるまいが、人間本来の感情だと思うのか。

だからこそ、もしその本来的な人間らしさを育てていけば、万物のひとつである人間が成長しないはずはないのだ。
そしてもし、その本来的な人間らしさを育てなければ、万物のひとつである人間が本来的にそなえるものも、消失していくことになる。
孔子は言っている。

〈手にとって守りつづければ、ずっとある。
でも、放っておいたら無くなってしまう。
それが出ていくときも、入ってくるときも、わからない。
それがどこに居るのか、知ることはできないのだ。〉

この言葉は、ただ人間の心を言っているのである。」

*以上、『孟子』告子上176ー孟子の言葉(59) 牛山の森は美しかった

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