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『孟子』告子下196ー孟子と淳于髡の対話(4)君子の行いは衆人に理解できない

◆全訳はこちら↓

淳于髡は言った。

「昔、衛(えい)の王豹(おうひょう)は、淇水(きすい)のほとりに住んでいたのですが、おかげで河西(かせい)一帯がよく歌うようになりました。
そういえば、斉の緜駒(めんく)は、高唐(こうとう)の地に住んでいたのですが、おかげで斉右(せいゆう)一帯がよく歌うようになりました。
そうだ、斉の臣下であった華周(かしゅう)や杞梁(きりょう)の妻は、戦死した夫のために泣き叫び、国家の風習をも変えていますよ。

さて、すべて内側にあるものは、必ずそれが外に現れてしまうものです。
なにか事業を起こして、その功業を打ち立てることができなかった者など、私はまだ、そんな人物を見たことがありません。
ですから…、斉には賢者がいなかったのでしょうね。
もしいたのであれば、私は、どうしたって知ることになるのですから。」

*どうやら、淳于髡は、斉に滞在していた当時の孟子が、賢者ではなかったと皮肉っているようです。

孟子は言った。

「孔子は、かつて魯の司寇(しこう)でした。ですが、意見が採用されることはありませんでした。
そして、祭祀において、配られるはずの肉が、孔子の手に渡されることがなかったため、冠を脱がないまま、すぐに魯から立ち去りました。

事情をよく知らない者は、肉が配られなかったからであろうと考えました。
ですが、事情を知る者は、礼にもとることをされたため、であったことを理解していました。
ちょうど孔子は、小さな罪でもいいから、なにかをキッカケにして、魯を去ろうと思っていたのです。孔子は、ただむやみに、去ろうとしていたわけではありませんでした。

君子の行いは、大衆がそもそも理解できるものではないのです。」

*以上、『孟子』告子下196ー孟子と淳于髡の対話(4)君子の行いは衆人に理解できない

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