『孟子』離婁下111ー孟子と斉の宣王の対話(13)臣下への作法―悼まれる君主とは
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*これは孟子が、まだ斉の宣王に仕えていたころの逸話です。
孟子は、斉の宣王に告げて言った。
「君主が、臣下をまるで自身の手足のように見なすのであれば、臣下も、君主を自身の内蔵や心臓のように見なすようになるでしょう。
ですが…、
君主が、臣下をまるで犬や馬のように見なせば、臣下も、君主をそこらの国のあかの他人くらいにしか見なさなくなるでしょう。
そして、君主が、臣下をまるで土塊やホコリぐらいに見なすのであれば、臣下も、君主を仇敵のように考えるようになるでしょう。」
宣王は言った。
「なるほど……。
ところで、礼にしたがえば、かつて仕えていた君主が亡くなったならば、喪服を着るそうだが…。
では具体的にどのような条件で喪服を着るものなのだろうか。」
孟子は言った。
「ある臣下が、君主を諫めて、それが実行され、意見が採用され、その恩沢が民にまでひろがったとします。
ですが、理由があってその臣下は、君主のもとを去らねばならなくなりました。
そこでまず一つめとして、その君主は、まず人を使いにやって、去りゆく臣下を案内させて国境まで送り届けます。
そして二つめとして、その臣下が行く先々の国に使者を送って、彼が行く先々で仕官できるように便宜を図っておきます。
そして、三つめとして、三年の間、その臣下が戻ってこなければ、そこではじめて俸禄として与えていた田地や邸宅を接収します。
この君主の臣下に対する三つの行いを〈三有礼(さんゆうれい)〉と言います。
このような君主であれば、その君主のために喪服を着るものなのです。
ですが逆に、今、もし臣下となり、君主を諫めても実行されず、意見も採用されず、もちろん恩沢も民にひろがらなかったとします。
そして、理由があって君主の元を去らなければならなくなりました。
ところが、君主がその臣下を捕縛したり、行く先々で妨害を行って困窮させたりしたとします。
さらに、その臣下が立ち去ったその日にはもう、その田地や邸宅を没収してしまうのです。
これでは、もう仇敵ですから、つまり〈寇讎(こうしゅう)〉と言うわけです。
その君主は、寇讎なのですから、どうしてわざわざ喪服を着る必要があるのか、ということになります。」
*以上、『孟子』離婁下111ー孟子と斉の宣王の対話(13)臣下への作法―悼まれる君主とは
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