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『孟子』78滕文公下―孟子と万章の対話(1) 恐れる前になすべきこと

宋(そう)という国があります。
殷王朝を祖とする古い国です。すこし春秋戦国史に詳しい方であれば、弱小国というイメージがあるのではないでしょうか。
ですが、春秋時代後期には、晋・楚和平の仲介者になるなど、あなどれない存在感を見せつけています。
とはいえ、宋が強国にはさまれていることは事実です。
そのため、宋の政治には、絶妙なバランス感覚が求められることになります。
今回は、そんな宋にまつわる、孟子と弟子の万章(ばんしょう)
の対話です。

万章は質問して言った。

「宋は、小国です。
しかし、今まさに王政を行おうとしています。

ですが、斉や楚が、宋を憎んで攻撃してきたら、どうすれば良いのでしょうか。」

孟子は言った。

「殷の湯王(とうおう)が、亳(はく)の地で、まだ小さな諸侯であったころ、葛(かつ)という国と隣りあっていた。
この葛の伯は、好き放題にふるまい、先祖の祀りもまともにしていなかった。

湯王は、人を使いにやって葛伯に質問して言った。
〈なぜ、先祖を祀られないのですか。〉

葛伯は言った。
〈お供えできる犠牲が無いからだ。〉

そこで、湯王は、葛伯に牛や羊を贈らせた。ところが、葛伯はこれを食べてしまい、結局、先祖を祀ることもなかった。
湯王はさらに人を使いにやって、葛伯に質問して言った。
〈なぜ、先祖を祀らないのですか。〉

葛伯は言った。
〈お供えできる黍(もちきび)と稷(うるちきび)が無いからだ。〉

そこで、湯王は、亳の若者たちを葛に向かわせ、葛伯のために黍や稷を耕作させた。さらに老人や子どもたちには、弁当を包ませた。
すると、葛伯は、葛の民を率いて彼らを待ち伏せすると、持ってきた酒や食べ物、それに黍や肉まで奪ってしまった。
しかも、渡さない者がいれば殺してしまったというのだ。

そして、ある子どもが黍や肉の弁当を運んでいると、その子まで殺して、その弁当を奪ってしまったのである。

『尚書』にもこうあるだろう。
〈葛伯が、弁当をはこぶものを殺してしまった。〉

これは、その時のことを言っているのだ。
殷の湯王は、この名もなき子どもが殺害されたからこそ、征伐を行ったのだ。
そして、世界中の人々が、湯王の行いをこのように言った。
「天下の富をもとめたのではない、名もなき庶民のために仇を撃ったのだ。」

湯王による初めての征伐は、それは葛国から始まったのだ。
それから十一度にわたる征伐がおこなわれたが、天下に、湯王にかなう者はいなかった。
そして、湯王が東に向かって征伐をおこなえば、西夷が湯王を恨んだ。
こんどは、南に向かって征伐すると、北狄が怨んだ。
彼らはこのように言った。
〈どうして我々を後にするのですか。〉

民が、湯王の征伐を望む様子は、大旱魃のなかで雨を望むようであった。
湯王の征伐のなかでも、市場に行く者は後をたたず、田畑の草をとる者も、いつも通りにすごした。
このように、湯王が暴君を誅殺して、その民をいたわる様子は、めぐみの雨が降ったかのようであった。
民は大いに喜んだ。
『尚書』には、このようにある。
〈我が君をお待ちしている、わが君が来れば不当な罰も無くなろう。〉

さて、今度は殷が周に滅ぼされることとなった。
『尚書』には、このようにある。
〈まだ臣下とならないものたちがいる。そこで東征して、殷の男女を安んじた。彼女たちは黒と黄色の絹の巻物を箱に入れ、我らが周王に紹介を求めて謁見してみると、そこで大邑である殷は、周に臣服した。〉

つまり、殷の君子は、箱に黒と黄色の生糸の巻物を納めて周の君子を迎え、殷の庶民は、竹の器に飯をもり、ツボに飲み物を入れて周の庶民を出迎えたのだ。
とはいえ、そうなったのは、民を水難や業火の中から救い出し、圧政を敷いていた暴君を取り除いたからにすぎない。

『尚書』の太誓は、周の武王を、このようにたたえている。
〈我れらが武威は高々と掲げられ、殷の国境に侵攻し、残虐な暴君を取り除いた。暴君を殺害、討伐した効果はすぐに広がった。殷の湯王が、夏(か)を討伐したことよりも輝かしい。〉

話を戻そう。
まだ王政を行なってすらいないのに、やたらと斉や楚を恐れるとは…。
まずとにかく王政を行えば、世界中の人々は、いずれも首を長くして宋をのぞみ、自分の君主になってほしいと思うようになるだろう。

斉や楚が大国であったとしても、何を恐れることがあるのかね。」

*『孟子』77滕文公下―孟子と彭更の対話 それは傲慢か


*『孟子』の王政(王道政治)について知りたい方は、哲学チャンネルさんがおすすめ

【原文】
萬章問曰、「宋、小國也。今將行王政、齊楚惡而伐之、則如之何。」孟子曰、「湯居亳、與葛為鄰、葛伯放而不祀。湯使人問之曰、〈何為不祀。〉曰、〈無以供犧牲也。〉湯使遺之牛羊。葛伯食之、又不以祀。湯又使人問之曰、〈何為不祀。〉曰、〈無以供粢盛也。〉湯使亳衆往為之耕、老弱饋食。葛伯率其民、要其有酒食黍稻者奪之、不授者殺之。有童子以黍肉餉、殺而奪之。『書』曰、〈葛伯仇餉。〉此之謂也。為其殺是童子而征之、四海之內皆曰、〈非富天下也、為匹夫匹婦復讎也。〉〈湯始征、自葛載〉、十一征而無敵於天下。東面而征、西夷怨。南面而征、北狄怨、曰、〈奚為後我。〉民之望之、若大旱之望雨也。歸市者弗止、芸者不變、誅其君、弔其民、如時雨降。民大悅。『書』曰、〈徯我后、后來其無罰。〉〈有攸不惟臣、東征、綏厥士女、匪厥玄黃、紹我周王見休、惟臣附于大邑周。〉其君子實玄黃于匪以迎其君子、其小人簞食壺漿以迎其小人、救民於水火之中、取其殘而已矣。〈太誓〉曰、〈我武惟揚、侵于之疆、則取于殘、殺伐用張、于湯有光。〉不行王政云爾、苟行王政、四海之內皆舉首而望之、欲以為君。齊楚雖大、何畏焉。」

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