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第39回 労災保険における事業主側からの不服申立ての可能性と問題点(2)

1.事業主からの不服申立てを是認する判決
 不当な労災認定によって保険料が引き上げられたことを不服として、当該保険料引き上げ処分の取消しを求めた有名な事件として、医療法人社団総生会事件(東京高判平成29年9月21日)がある。同事件は、従業員である医師に発症した脳出血について、業務上の災害であると判断されたことによりメリット制が適用された結果、年間の労災保険料が600万円以上も引き上げられることになったため、事業主が、そもそも労災であると認定した処分が違法なものであり、同処分に基づく料率引き上げは不当であり、取消されるべきだと主張するものであった。法的な論点としては、仮に業務上であるとの認定処分が違法なものであったとして、同処分を理由としてなされた保険料引上げ処分は取り消されるべきか、という点にあった。「違法性の承継」と称される同論点をここで解説することは避けるが、こうした訴訟が提起されたこと自体が、大きな意味を持ったといえる。同裁判は最高裁まで争われ、結局、「違法性の承継」を否定して事業主側は敗訴する結果となったが、実は、高裁判決において、傍論ではあるものの、メリット制適用事業主(特定事業主)については、業務上判断に対して不服申立てを行う法律上の利益はあると明確に述べたのである。この点、最高裁判決は同論点には触れておらず、今のところ、問題は保留状態にあるといえるのだが、現実には、すでに審査官及び労働保険審査会への事業主側からの不服申立てはかなりの件数に及んでいると聞く。

2.行政不服審査会の答申における「付言」
 業務災害等の支給決定において、事業主からの不服申立てを認めないとすることについては、行政不服審査会においても強く疑問が提起されている。石綿救済法に基づく給付金が支払われたため、労災保険料が上昇したことについて、事業主が不服申立てを行った事件(平成29年度諮問第24号、答申第27号・平成29年12月5日)において、同審査会は、「違法性の承継」については上記判決と同様にこれを否定したものの、本来は、業務災害等の支給決定段階において審査請求ができるようになされているべきであるとし、「付言」において、次のような厳しい問題指摘をしている。
 「メリット制を導入して、業務災害等支給決定の結果を保険料認定決定に結合した際に、行政救済のルートに関する十分な検討なり、制度設計なりがなされておらず、そうした問題が本件審査請求の背景になっている点は、所管の行政機関において明確に認識する必要がある。したがって、本件について、審査庁の判断の結論自体は是認せざるを得ないとはいえ、別個の処分であるからとの形式的な理由で簡単に結論付け、一方で事業主の不服申立てに係る手続保障の制度的不備を放置したまま何らの改善措置も講じないことは、行政機関の態度として妥当とはいえない。(中略)例えば、業務災害等支給決定を行った旨を適用事業の事業主に通知する規定を法律に明記するなど、早期の制度的改善が望まれるところである」。同「付言」は、平成30年度の事件(平成30年度諮問第85号、答申第83号・平成31年3月25日)においても、同文で繰り返されている。

3.事業主からの不服申立てに伴う問題点
 審査官及び労働保険審査会に提起されている事業主からの不服申立てについては、今のところ、適格性はないとして却下(棄却?)している。上記高裁判決は、傍論にて意見が述べられたにすぎず、最高裁が積極的にこれを是認したわけではないことと、行政不服審査会の「付言」などについては、全く意に介さないというのが厚労省のスタンスであろう。この点、前回述べたように問題は複雑であり、単に事業主による不服申立て権を認めるように法改正をすれば済むという問題ではない。上記「付言」では、適用事業の事業主に業務災害等給付の支給決定を行ったことを通知するよう推奨しているが、言うまでもなく、同通知の意味は、不服申立てができるとの意味合いを含むものであろう。すると、不服申立てが行われた際にはどのような手続きを行うか、原処分に基づく執行をどうするかといったことが決められていなければならない。さらに、少なくとも理論上は、給付基礎日額の変更や障害等級の変更でも特定事業主の保険料は変更される可能性あり、その都度事業主に通知し、不服申立てができる旨を教示すべきなのかという問題も生じてこよう。

4.労災保険の法的関係に係る基本問題
 労災保険給付の決定について事業主からの不服申立てを認めるということは、労災保険の制度構造に係る考え方を転換することを意味する。労災保険制度においては、保険料負担者と受給権者が異なることから、被保険者という概念をもって説明することは避けられてきた。しかし、普通に考えれば、保険料を負担している事業主が被保険者であろうし、受給権者が労働者である点は、第三者のためにする契約であると考えれば済む。そう考えれば、
被災労働者が直接的に保険請求をできることも、一方、諾約者である事業主が契約上の抗弁として取消しを求めることも説明可能となる。問題は、労働者(受益者)に権利が発生した後には、保険者(国・要約者)も事業主(諾約者)も、これを変更・消滅させることはできないこととなる点であるが、これは権利の発生〔確定〕時期をいつと捉えるかによって処理することが可能である。考え方としては、被保険者である事業主が不服申立てをしない(保険給付への同意)との意思表示をもって権利が発生したと捉えれば、問題は生じないと考えるが、いかがであろうか。

5.事業主の不服申立て権と被災労働者救済の調整法
 実務的には、次のようなプロセスを辿るべきであると考える。まず、労基署が業務上認定の判断をした際には、被災労働者に通知すると同時に、事業主にも通知を行い、不服申立ての権利があることを教示する。事業主が同権利を放棄するとの通知をもって、受給権は確定し、その後一切の不服申立ては認めない。事業主が同権利を行使するとの通知を行った場合にも、被災労働者への療養補償給付及び休業補償給付は実現され、不服申立てが認められる(処分取消し)決定がなされるまで続けられる。給付決定処分が取消された場合にも、それまでの支払われた保険給付については被災労働者に返還を求めることはせず、保険財政的には損金として処理する。保険制度の運営においては、こうした損金は必然的に生じるものであり、事業主に対する手続き保障を強化するという目的であることから見て、被保険者である事業主の理解は得られるものと考える。なお、現状の審査請求及び再審査請求というプロセスを辿ることは、時間の無駄であり、事業主からの不服申立てについては直接に労働保険審査会に提起されるよう法改正することが望ましい。問題は、被災労働者死亡による遺族補償給付をどうするかであるが、給付額の大きさや影響の大きさを勘案すると、基本的には、事業主から不服申立て権の放棄通知ないしは(再)審査請求棄却の判断が出るまで、保険給付を実施しないということにならざるを得ないであろう。一定の要件のもとに、不服申立てに係る手続きが行われている期間については、何らかの生活保障給付を支給するといった方法が考えられてよいかもしれない。

6.厚労省が躊躇する理由と残された問題点
 上記提案には、細部まで検討していくと問題があるかもしれないが、高裁判決や行政不服審査会が提起している問題を無視している現状は異様であり、早急に検討が始められるべきであることは言うまでもない。おそらく、最も抵抗するのは、労働者団体ではなく、厚労省であろう。現状においても、労災の認定実務は極めて煩雑であり、事業主からの不服申立ての提起といったプレッシャーがかかると、現在の職員の能力及び人員では耐えられないことになるのは明らかである。現状において、「業務上」という判断さえしておけば、批判されることはないという安易な職務執行が残念ながら随所に見られ、調査も粗雑になっている感は否めない。職員の質と量の確保は、必須の条件である。
 使用者への不服申立て権付与に係る問題点は、上記において言い尽くせてはいない。例えば、事業主による嫌がらせ的な不服申立てをいかに防止するか、特定事業主だけに限ることなく、労災認定を契機として民事損害賠償訴訟において不利な立場に追い込まれる可能性のある事業主も対象とされるべきではないかなど、考えれば多くの課題があるように思われる。これまでの労災保険制度は、被災労働者の保護という名目のもと、その実施機関である行政庁(厚労省)の執行のしやすさを基本として運営されてきたといえる。保険料を支払う事業主が不服を申立てる権利があることは、欧米諸国では当然のことであり、カナダの労災保険局員に日本にはそうした権利がないことを説明した際には、驚かれるとともに、それはラッキーなことであると皮肉に称賛されたことを思い出す。

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