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青松輝(ベテランち)の短歌の読み方

この記事について

短歌の初心者でもわかる青松輝の短歌の読み方(その補助線みたいなもの)を書きたかった。

この人の短歌を取り上げる。

青松輝(あおまつ・あきら)
1998年3月15日生。東京大学Q短歌会に2018年から所属。ネットプリント「第三滑走路」。

彼の短歌はブログなどで読める。

はじめに

はっきり言って、青松輝の短歌はかなり難しい。短歌に普段ふれない人が見ると「こういうのも短歌なのかー」くらいの感想ですむかもしれないが、それなりに見慣れている人からすると青松の作品はわりと異質な部類に入ってくると思う。

どんな作品が現代短歌において「ふつう」な部類なのかは明確には言えないけれど、インターネットでわかりやすく話題になるのはこういう短歌ではないだろうか。

短歌の読み方に絶対の正解はないけれど、一般になじみやすいのは、その作品が言っていることを通じて他者の世界観や価値観にふれてみるという楽しみ方だと思う。もちろん、短歌という文芸の幅は意外と広くて、偶然短歌だとか星野しずるみたいな自動生成なども広義の短歌ではあるのだが、やっぱりその作品が言っていることを実際に考えて口にしている人がいるていで鑑賞するというのが短歌という文芸のオーソドックスな鑑賞のしかただろう。

それで、たとえばさっきの短歌だったら、「自分もこういう気持ちになったことあったなー」とか「自分はこういうふうなことを考えたことはなかったなー」とか思ったり考えたりしてみる。そういうやり方でたぶん大体の短歌は楽しめるはずだ。

もっとポエミーなやつの場合

次のような、もっとポエミーというか、捉えどころのないような作品も、実はさっきのスタンスでけっこういける。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
/笹井宏之『ひとさらい』

ここにおける「永遠解く力」とはいったい何を意味するのかなどとうーんうーんと考えるのもひとつの楽しみ方なのかもしれないが、それはたぶん考えたところで正解にはたどりつけない。こういうときは、意味はとりあえずよくわからないのだけれど、このよくわからなさまで含めて、これを作った人はこれが「よい」と思ったんだろうなと考えてみるとよい。

こういうポエミーな作品も含めて、短歌作品というのは作った人がその作品で実現したかったねらいのために、ベストと思われるかたちに練られたものを公開しているのだという暗黙の了解がある。

「えーえんとくちから」は「永遠と(あるいは延々と?)口から」かもしれないし、そうじゃないかもしれない。よくわからないが、ともかくその繰り返しがじわじわと「永遠解く力」へと変わっていくこの感じが、この人にはなんとなく心地よいものに思えたのだろう。もちろんもっと他の作品も参照しながら、この笹井という歌人がどんな思想のもとでこの作品を生み出したのかを本格的に考えてみることもできそうなのだけれど、とりあえずこの一首として鑑賞するかぎりでは、こういうものを「よい」と感じた笹井の感性に寄り添うような楽しみ方でも充分なんじゃないかと思う。

青松輝の短歌

そんな感じのスタンスでいくことにして、いよいよ青松の短歌を見ていきたいのだが、よくわかんねーんだわこれが。

智・感・情・ヴァナキュラー・エレクトロニック・インプロヴィゼーション・嘘・じゃない
/青松輝「improvisation」
グッドラック・バッドフォーチュン・バッドエンド・ナイーブすぎる・夜・グッドバイ
/青松輝「improvisation」

青松の短歌は、そもそも一見して何を言っているのかわかる作品ばかりではない。だから、ポエミーといえばそうなんだろう。しかし、たとえば笹井の「えーえんとくちから」のような雰囲気とはまた違う。この2首はあえて意図的に並べてみたものだけれど、単語がナカグロで細かく分断されていて、日本語の文として意味をなすような部分がない。

なんというか、こういった、部分部分をバラバラなままにしておく感じというのをたぶん青松は意図的にやっているような気がする。

遠くまで海で手前に船がある 光と連れ立って愛の補充
/青松輝「improvisation」
THE NEW AMERICAN DREAM ウイルスと桜の花はどこか似ている
/青松輝「improvisation」

この2首などはつくりとしては短歌をやっている人がよくやるパターンを踏襲している。いわゆる「句切れ」というのがあるパターンだ。位置やあいだの空白の有無なんかは問わないけれど、一首の短歌のなかに前半部分と後半部分があって、全体として何か関係ありそうでなさそうなことを言う。そういうある種の技法みたいなものだろう。しかし、青松の作品の場合、そういう連想ゲーム的な、関係ありそうでなさそうな雰囲気というのが感じられないことが多い。「THE NEW AMERICAN DREAM」と「ウイルスと桜の花はどこか似ている」が関係ありそうでなさそうな雰囲気なのかというと、たぶんまったく関係ないだろう。どちらもそうと言ってみただけで、それらがここで並んでいるのはたまたまという感じがする。

この部分部分がバラバラでちぐはぐな感じは、実は「これはぱっと見で意味はわかるじゃん」みたいな作品にもエッセンスとして通底している。徹底してリズム感が独特なのだ。こちらの「短歌として読んでやるぞ」という心構えをとにかく破壊しようとしてくる感じ。

すべてのファーストレディーズが招待されてドラマティックなホワイトハウス
/青松輝「improvisation」
僕をくるみながら煙って想念が創るあなたのかたちの塑像
/青松輝「improvisation」

短歌はふつう五七五七七のリズムでつくることになっている。なっているのだが、律儀に五七五七七のリズムだけで作品をつくる歌人はたぶんいない。歌人のリズム感はもうちょっと変則的なもので、なんとなく5つのパーツでできているはずとか、前半部分(上の句)と後半部分(下の句)があるはずとか、そういう心構えのもとに読んだときに五七五七七のリズムの亜種みたいに感じられる場合は「破調」という呼び方をして、完全な「自由律短歌」とは区別する。

「すべてのファーストレディーズが」や「僕をくるみながら煙って」は、はじめの五音のリズムを無視してそこまでのパーツを一息で読ませるようなつくりになっている。

運命は流体で、街を巡ってはときどき夏の頬を濡らした
/青松輝「improvisation」

これも似たような効果をねらった小ワザで、あいだに「、」を入れることではじめの五音のリズムを無視させている。こういうふうに読者が作品を読むリズムをコントロールするということについて、上で見たナカグロや空白の使用も含め、青松は非常に神経を割いているらしいことがうかがえる。

むすび

彼にどのような信念があってこういうテクを多用しているのかはよくわからない。青松は短歌に関連して自分でも文章を書いたりするので、たとえば以下のような評論のなかに少なからずヒントがあるような気もするのだが、まあ、ここでは深入りしないでおく。

ここで書いたことは論としては中途半端だけれど、青松輝がどのようなねらいで短歌をつくっているのかを考えてみる一助くらいにはなるんじゃないかなと思う。

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