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10月17日

『返信はいりませんってどういう意味なんですか?』
 もう絶対にあわないと決めた既婚者の彼にメールをした。これで終わりなんてやっぱり腑に落ちなくてつい間が差していや、さみしさのあまり、いやこれは言い訳であいたくてあいたくてどうにかなりそうになったのだ。これだけ我慢をしたのだしもう終わりにしてしまったほうがよかったのに。それでもたくさん好きだったおもいはいつまで経ってもうまく思い出にはならず自分の気持ちに正直になってみることにしたのだ。我慢をすることなんてないんだとふいにおもいなんで我慢をしなければならないのだろうかと疑問を抱いた。
 無職になって合わす顔がないしヘルスで働いているとかそうゆうのが後ろめたいのもあった。けれど仕事を辞めたことだけは伝えたかったし愚痴をこぼしたかったのもある。
『今日そっちに戻るから』
 メールの質問には答えてなくなぜかそのような返信が来た。
『あえるの?』
 指が勝手に動いてあたしの胸の奥で眠っていた言葉をすらすらと打つ。もう指だけが素直に動いていてあたしの意識とは別の生き物のようだった。
『夕方の5時半にインターにつくから』
 ちょうど直人のうちはインターの近くなので
『ローソンにいます』
 すぐにメールを打ち返した。冷静になってみると涙があふれかえっていた。とゆうか泣いていた。あいたかった。あいたかったのと大声をあげて車の中で大声で泣いていた。胸の中からの悲鳴があたしの体中をおののかせた。それはまるで小さな子どもが迷子になりやっと母親をみつけて大声で「ママー」と泣き叫ぶことに似ているなとおもった。そうなのだ。あたしはどうや迷子になっていたのだ。保護者のもとに帰る子どもになったあたしは彼が待ち合わせ場所にきたとき泣いたと悟られないようお化粧をなおし「よっ」てな感じで助手席に乗り込んだ。
「なんだ。なんだ。げっそりして」
 久しぶりの彼の声に動悸がした。声に角が取れていてとても落ち着いている気がする。あたしはへへへと薄笑いを浮かべて、仕事を辞めたことを淡々と話した。そっか。まあけどさ、ふーにもおごりがあったんじゃないの? と彼もまた苦笑いを浮かべる。おごり? あたしは語尾と顔をあげ彼に質問をする。
「驕りっ、んーだから簡単にいえばさ、思い上がるってこと」
 思い上がる? そうかなぁ、そうかもしれないなぁ。彼に指摘されるまで皆目おもわなかったことだ。あたしがいないと誰もできない仕事。ずっとそれがプレッシャーであり実は誇りだったのかもしれない。
「わからないわ」
 彼は車を走らせてインター付近のホテルに入った。
 部屋は質素だけれど彼にあうのがおもいのほか久しぶりで舞い上がってしまいけれどうまくしゃべることが出来なかった。彼がひとりで喋っている。あたしはそれを黙って聞いていた。嫌ではなかった。むしろ楽しく聞けた。彼の話の中ではあたしも知っている人が登場する。だから余計に話を共感できた。
 ベッドに入りキスをしながら
「返信はいりませんってどうゆうことだったのかな」
 甘えた声で聞いてみる。彼の心臓の音なのかあたしの心臓の音なのかが曖昧でうるさい。
「そういうことだよ。深い意味はない」
「じゃあ、もしあたしが今日メールしなかったらもうあわなかった?」
「さあ」
「あたしはもうあなたにあわないつもりだった」
 わかってたよと彼はあたしを抱き寄せて深くて甘いキスをした。背中に腕を回しあう。好きが戻ってくる。この淡い感情はこの人以外ありえない。蜜の味。もう地獄だとおもう反面どうせいつかは死ぬのだしこのまま好きなままでもいいじゃないかと開き直る。どこが好きなのかとかどこがいいのだとかそんなことに理由などはない。ただ単純に好きなのだ。
「好き」
 好きと何度も呪文のようつぶやきながら涙を流す。いつも泣きながら抱かれるあたし。彼はけれど決してそれには触れない。あたしは泣くものだとはなから決め込んでいる。泣くなよとかめんどくさいとかはおもっていてもおくびにもださない。優しいのだ。根本が。
「まあなんでもいいじゃん。がんばれよ」
「まあね。なんかさ元気になった。ありがとう」
 ホテルから出て、メシ食ってくか? といわれたけれどずっとビジホに泊まっていた彼には早く自宅に帰ってほしくて、いいよと首をよこにふる。
「またメシでも行こ」
「うん。またね。歯が治ったら連絡して」
 彼は笑うのをやめ真顔になり口元を一文字に引き締める。
 前歯が一本ないのだ。彼は。折れたらしい。笑えないけど本当は笑える。
 あたしは彼に抱きつき耳元で、好きとささやいた。バカと彼はあたしを叱ったけれど耳朶が真っ赤になっていてつい嬉しさがあたしの胸を熱くさせた。
 彼は奥さんのもとに戻っていった。けれど嫉妬ももうない。
 それでも。それでもどこかでは嫉妬はあるしなんなら彼に殺されたいと願う。きっと後悔しないだろうその死に方にあたしは自分で考える。
「殺して。あなたの手で。あたしを殺して」
 ドラマのような台詞をドラマのように口にしてみる。夜の闇に低くたちこめた雲の中にその胡散臭い台詞はゆっくりと上昇し吸い込まれてゆく。明日は雨がふるらしい。
「墨だし出来るかなぁ」彼は明日現場で墨だしをするようだ。
 現場監督の彼が好きだ。彼はいつも日焼けをしている。

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