カーディガン

 仕事柄誰よりも人一倍、いや人二倍はパソコンとにらめっこをしている。最近はにらめっこに関してはあたしの方が勝者でありパソコンの方が敗者でおいパソコンは笑わないだろ的なことなどあたし次第の感性でありしかしあたしはいつだって負けたことがない。眼精疲労に偏頭痛をしっかり抱え毎日をなんとかやり過ごしている。
「はい、これ。もう絶対に忘れてくなよ」
 しゅうちゃんに会うことになって助手席のドアを開けた途端に紺色のカーディガンをぞんざいに渡されていったい何がなんだかよくわからない状況だったけれど紺色のカーディガンを手にとって、あ、これこの前忘れていったものだと気がつく。
「ワザとじゃねーの? 前はピアス忘れていったし」
 まさかぁ、なわけないでしょ。だってこれお気に入りなのよ。あたしはカーディガンをしっかり握りしめながらしゅうちゃんに果敢にいいはる。逆に嘘っぽく聞こえたようで、はいはい、しゅうちゃんは顔をしかめた。
 以前は会う口実が欲しくて色々なものを意図的に忘れていったものだ。
 ピアスやら無論カーディガンやあるいは文庫本だったりマフラーだったりハンカチってのもあった。ピアスなんかはしゅうちゃんの作業着にくっ付けておいた。多分8回はしている。戻ってきたピアスは真っ赤なまあるいいやでも目立ってしまうピアスでその他のピアスはあたしの元には戻ってはきてはいない。
 きっと奥さんが持っているのだろう。
 賢いなって思う。浮気を黙認しけれど夫を立てる妻を演じる。しゅうちゃんももう開き直っている。だからあたしにまだしかし会う。もう会わないっていったにも関わらず。肌だけの関係で。そのはざまには少なくとも『愛』だの『好き』だの『恋』だのは一切関与などしていなくただ単純に『牡』と『牝』がベッドの上でおもむろに息を切らし戦っているだけだ。
 しゅうちゃんはいつも疲れを滲ませた顔をしている。
「お前さ、めちゃくちゃ疲れた顔してね?」
 しゅうちゃんもじゃん。とはいわずに
「そうね。そうなの。眼精疲労だもん」
 眉間にしわを寄せないよう眉間に指をあてがいながらこたえる。
「最近だって忙しいんだもん」
 頬を膨らませながらつけ足す。ふーん。まあ、な。しゅうちゃんはそれどころじゃないよ的な感じでアイコスをとりだす。
「俺だって忙しいよ。てゆうか皆忙しいんだよな。でも暇だと文句をいうし」
 はぁー。アイコスをふかしながら言葉をくぎる。アイコスの匂いにはいまだに慣れない。
「なにが正解でなにが正しいのかなんてきっと死ぬまでわからない」
 ごもっともな意見を小声でささやくように誰にでもなくつぶやいた。
「そうね」
 あたしたちにはもうそれ以上の言葉あるいは単語すら思い浮かばなかった。
「でも、」
 それでもあたしはなんとか頭の中で単純で最もむつかしい単語を並べ
「でも、あたしはいつまで経ってもしゅうちゃんが好き」
 部屋の空気の流れが一瞬ひんやりとした。空気の流れが変わったとともにしゅうちゃんは首を横にふりながら立ち上がりシャワーを浴びに行ってしまった。
 シャワーの音が聞こえる。それは雨の音とも似つかない本当のシャワーの音。シャワーが床を叩く音がするたびにいつだって涙が出そうになるのはあたしの癖だ。
『どうして好きでもない女を抱けるの? ねえ、しゅうちゃん。奥さんにもう2度もバレてるんだよ。でもどうしていつまで経ってもあたしを受け入れる? なんで? わからないよ』
 それでもあたしはしゅうちゃんの慣れ親しんだ胸の中におさまる。「ねぇ、だんだんと秋っぽくなったね」といいながら。耳元でささやきかける。うん。しゅうちゃんはそれ以降なにもいわない。あたしだけが必死になって愛撫を重ねる。しゅうちゃんの時折聞こえる甘い声音。愛している人との戯れはなんて心が気持ちがいいのだろう。心が逝く。あたしは彼によってそれを学んだ。まだ小学生だったあたしは今では大学院生にまでなったのだ。愛のかたちなど様々でそれでいていびつであり自己肯定で身勝手な欲望でもあるけれど好きになることのなど奇跡にほとんど海の中に落としたピアスを見つけるのに等しいかもしれない。
「昨日さ、ホテルで出張マッサージを呼んだんだよ」
 現場が遠方なので現場近くのビジネスホテルに週に2度ほど泊まっている。
「うん」
 それで? あたしは顔だけを向け話の続きをたっぷりと待ったけれど一向に話は続かなかった。
「明日もはえーなぁ」
 しゅうちゃんの口癖はもう帰るかのサイン。あたしは帰ろうかと立ち上がる。
「はえーから(早いから)」
 真似をする。あたしはついクスクスと笑ってしまう。なにがおかしいのだろう。しゅうちゃんはあたしの顔をみつめながら首を傾げている。
「それでさ、」
 帰りの車の中で唐突に口を開いたのでびっくりして
「なにが?」
 なに? と聞き返すふうになった。
「あ、うん。なんでもない。てゆうか、なにをいうのか忘れた」
「なにそれ」
 しゅうちゃの車の後部座席にはまたおまるがのっていたし、ポリバケツに水が3つも積んであったしヘルメットにはしごまであるしブルーシートもあった。
「住んでるね」
 背後を一瞥し一言だけ告げる。住んでねーし。
 いつも会うとこの会話でけれどこの会話自体が素敵なことでなにも利害もない関係みたいだしたとえば今度の週末は釣りにでもいく? みたいな流れになっても全くおかしくはないのに。

「絶対に持っていけよ」
 車から降りるときカーディガンを持っているか確認をされた。なぜか悔しかったしクソって思った。しゅうちゃんは今から何食わぬ顔をして自宅に帰る。いい夫。いい父親になって。寝癖がついているのに。
 あたしを抱いたことなどなかったかのように振る舞って。シャワーで流してしまったらもうしゅうちゃんの中ではリセットなのだから。
 午後の8時。空模様は分厚い雲がたちこめている。今にも雨が降って来そうで来ない。
「星も出てないんだ」
 空に向かってつぶやいた言葉など広い空になどまるで影響などなくただしばらくはその場に佇んでいた。生暖かい風がふんわりと足元に絡みつく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?