Just one word

 どうしてこんなにもあいたいのにあえないのだろう。たった一目でいい。顔が見たい。どうしてそんな簡単なことが高校三年生の数学よりもむつかしいのだろう。
 あいたくてあいたくてふるえる〜、の西野カナじゃないしふるえはしないけれどずっとあのひとに心を支配されてつい無駄に涙を流している。

「はぁ? てゆうかさあんたってバカなの? それでなきゃアホなの?」
 ああ今日も残業か? チッ、と定時の10分前にパソコンから顔をあげ時計を確認した。顔をあげたとき、うっ、とつい声がでた。ずっとうつむいていたから顔に血がのぼってきた感覚がしてカーッと顔が紅潮した感じがした。ついでにうーんと両腕を天に向けて伸びをする。はぁ〜、別に温泉に浸かっているわけじゃないけれど些細な伸びだけでもとても心地がいい。きっと3時間はパソコンを睨んでいた。  
 今、担当しているのは歯医者の図面だ。設計士のお手伝いで入った会社だったのにその社長の設計士が適当でクライアント先からクレームが来る。なのでいつの間にかあたしが最後に清書する羽目になっていてもっぱら建築会社とのやりとりもあたしになっているし、つい最近だと地鎮祭まで社長の身代わりでいってきた。

「バカで結構ですよー。あ、すみません。これと同じものもう、」
 といいかけて隣にいるユカのジョッキを眺める。ユカはうなずき口を開いて
「もうふたつ!あ、ひとつは大にして」
 そう大声を張り上げた。大って、と笑いながらよくそんなに入るねーとクスクスと笑う。
 結局今日は残業はなかった。「あ、もう今日はあがっていいよ。後、俺が見とくからさ」
 え? いいの? あたしはひどくおどろきけれど帰りたかったので素直に、じゃあお先ですといい残し定時であがってユカを誘って居酒屋にきている。

「あのさ、いい。ナオが細井さんを好きなのはわかるよ。けどね、あの人は既婚者だしね、現場を今3つ見ててそれも大規模でね、大変なわけさ。そんなにメールしたら引くって。重いなぁ〜とか、うっざとかさ」
 うっざとかさのあたりがうっざとらかさ〜と呂律がかなり怪しくなっている。ユカはたくさん飲めるけれど本当は弱い。酒に飲まれるタイプなのだ。
「わかってるよ」
 はいお待ち〜。と持ってきた生ビールのジョッキを舐めながらぼんやりとつぶやく。
 半年前、地鎮祭のとき出会ったのが細井さんだった。ユカの会社の現場監督で一目惚れだった。既婚者だと知ったのは体の関係を持ってからでだからあたしは本当に彼のことが好きなのだと余計に思ってしまった。けれど既婚者だとわかっていたらどうだったのだろう。そんなの関係ないよ。といって断っただろうか。彼とそうゆう関係になるのはほとんど立ち読みをするくらいに簡単だった。偶然同じ町内に住んでいてその日にあたしのアパートに来てそうゆう関係になったのだ。だから彼も自分が結婚しているんだという前に欲望に負けた。順番が逆だったわけだ。けれど彼はあたしを抱いた。責任とか体裁とか既婚者とか独身だとか監督だとか仕事関係の女だとかそんなのどうでもよかったのだ。真っ暗な部屋で声と声だけがぶつかった。声だけで濡れた。欲しかったものが手に入った瞬間涙が出た。あたしはその日を境に目の前がピンク色の世界に変わっていった。
「てゆうかナオさ、今歯医者の図面描いてる? あれも細井さんがやるみたいだよ〜」
 もう、飲み過ぎだよ、と苦笑いを浮かべユカの手にある大ジョッキを取り上げる。
「そっかぁ。あの歯医者さ、結構複雑なんだ。けれどさ、素敵なの。こじんまりしててね」
 ユカはテーブルに突っ伏していてもう何も聞いてはいなかった。けれどあたしはまだ続ける。
「細井さんがね、関わる仕事はあたしの全てでもあるんだ。なんかさ一緒につくったみたいでしょ。ねぇ。わかる?」
 わかるよね。ねぇ。細井さん。
「忙しいから」「今日は無理」「明日から泊まり」
 最近は否定的なメールばかりで死にそうになっている。とゆうかゾンビになっているし幽体離脱をして彼にあいにいっている。忙しいのはわかっている。けれど、なぜにたった一言でもいい。「元気か」がいえないしいわないのか。
 忙しい、忙しいといいだした男はもうその女には興味がなくなったという記事ないしネットで見かける。そうならそれでも構わない。今のこの宙ぶらりんの状態がひどく嫌なのだ。嫌われるなら別れた方がいい。好きな人に嫌われるほど罪なことはない。それこそ死んだ方がいい。自殺・名所などとググってみたことなど何度もある。

 ユカがあまりに泥酔で手に負えなく社長に電話をし迎えにきてもらう。ユカは社長と付き合っているのだ。社長はバツイチで独身。何も誰も咎める人なんていないのだから。正直羨ましい。社長におんぶされたユカはひどく子どもじみて見えた。実際15歳も年下だし子どもじみていてもいい。ユカも社長もうまい具合に恋愛の天秤が同じくらいなのだ。
 5月の夜気はまだ肌寒い。昼間はとても気温が上がるけれど夜は急にクールダウンをする。まるで男と女のような季節だ。

『電話して』
 細井さんにメールをする。よっし、酔った勢いだといわんばかりに。
 けれど電話はうんともすんともいわないし死んでいるように動かない。
『来週メールする』
 うちに帰って冷蔵庫からミネラルウォーター出して飲んでいるとメールがきた。
 なにそれ、なにそれは。
 その文字を眺めながらやはりあたしは涙を流しその場に膝から崩れて嗚咽をもらす。ぞんざいなメールでも彼との繋がりがあるだけでもう涙がとまらない。あたしはきっと囚われている。
 恋という病に。

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