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virus

『今電話いい?』
 ブルッとスマホが震えて画面に目を落とす。
 ずっと音信不通をつらぬいてきていた彼からでやっぱりドキドキした。
『メールいい?』じゃなく『電話いい?』というのなにごとなんだろうか。と訝る反面もしかしてもしかしたら? というグレーな空気が目の前を通り過ぎた。ドキドキしながら電話を待つ。あたしはそのとき会社にいた。10分くらいして彼からの着信があり携帯を持って立ち上がる。そのままトイレに入り、はい、と赤い通話ボタンを押す。
「なにか変わったこと、ない?」
 もしもし。あ、俺、俺。元気? でもなく開口一番のせりふがそれだった。
「は? なにそれは?」とちょっとだけ呆れた声を出し
「ずっとメールが来ないから死んでた」と笑いながらつけたす。
「いやいや、そうじゃなくて。ない? なんか? だるいとか。熱があるとか」
 あーーーー。あたしはもう察していた。それでも
「別に。鬱っぽいのと欲求不満くらいで特にないけど……」
 梅毒治療中ですなんていえないし。嘘ついてごめんなさい。と心の中で呟く。
「そっかぁ」
 ちょっとだけ間があいたのち、そっかぁ、と彼が疲れたように吐き出す。
「なにかあったの?」
 んーーーー。また間があく。
「どうしたの? ねえ?」
 強めな声を出すと彼が、実はさ、と爆弾を仕掛けてきたような声で話を切り出した。

 サーフィンをする彼はここのところ毎日海に行っていたといい、そのときにスエットスーツの中にある棹が擦れて傷になり痛いけど放っておいたら今度は股(リンパ腺)が痛くなってとうとう膨れ上がりああもうこれは医者に行かんといけないと察し行って診察を受けたら『もしかして梅毒かもしれません』と告知されたという。
「……、ば、梅毒って」 梅毒って、と落胆の声を出すも、ああこれはもうきちんと話した方がいいなと覚悟を決めていると
「ごめんな。移ってるかもしれない」
 えっ? 変な声が出てしまった。移したのはあたしだよとはまだいえなかった。
「1ヶ月くらい前、風俗に行って女としたんだよ。2回行って2回とも違う女で生でした」
「はぁ? 嘘でしょ? だって忙しい忙しいっていって、連絡もくれずメールも無視でどうして。風俗に行けるの? なんで? 梅毒とかそんなのよりもそっちの方がショックだよ」
 ショックだよ。のあたりは鳴き声になっていた。
 他の女を抱く余裕があってなぜあたしには会わず無視をしたのか。もしかして感染源は彼かもしれないというまさかの不安がよぎる。
「今からってゆうか、今日会える? 会えるよね?」
「……、あ、ああ。でも会うだけ。股が痛いし」
 なにがなんだかよくわからない状態になりあたしはトイレからなかなか出られずにいた。
 早退を申し出て会社の隣のセブンで落ち合う。
 車に乗ったせつな「本当にごめん」彼は目を伏せつつ謝った。
「それってなにに対してのごめんなの? 病気になっているからかものごめんなの? 風俗に行ってきたという謝罪? 無視をしてきたことへの無意味な謝罪? なんなの?」
 夕方の5時はまだ明るい。コンビニはコロナ対策で窓がパーパーに開いている。 
 あたしの声は薄く開いている車の窓から多少もれていたのかもしれない。隣の車から降りてきたおじさんがマスクをしたままこちらを見て薄ら笑いを浮かべる。
 見てんじゃねーよ。おっさんよ! は? てゆうかおじさんさ、なんでそんなにお腹が出ているの? セブンのメロンパン食いすぎじゃねーの? は?
「全部。ごめん。忙しかったのは本当」
 はっとして意識が戻る。一瞬妄想に入っていた。こんなときにでも妄想を浮かべるあたしっていったいバカなの? と思いつつ笑いを嚙み殺す。
「とにかくホテルいこ」
 不倫のカップルって喫茶店にも行けないんだなぁと改めて痛感する。普通のカップルじゃない。ホテルしか行かないんだね、じゃなく、ホテルにしか行けないのだ。

「どうして」
 ホテルに入ってから何度目かの「どうして」はなにに対しての「どうして」なのかわからなくなっている。けれどあたしはベッドに突っ伏し泣きながら「どうして」を10回ほど繰り返した。
「風俗で2回目に呼んだ女が勝手に挿れてきた。生でいいっていい張るから。やべーなぁって思ったけど遅かった。中で出したんだ」
「もう、いい! 聞きたくない」
 ただでさえ奥さんもいて家族もいて他に女もいてその挙句風俗嬢って。もはや呆れ返ってしまい声が出なくなっていた。
 あたしが梅毒とわかる前に一度彼とした。彼はその前に風俗嬢とした。
 もしかしてあたしが彼から移ったのかも。頭の中が混乱を始めだし苺のショートメーキが食べたくなる。
「抱いて欲しい。もし無理なら殺して」とか
「あたしだけこんなに好きでなんかこれじゃ馬鹿みたいじゃんよ」とか
 雄叫びをあげ泣き叫び彼は眉間にしわを寄せきょとんとした顔をしている。
 もう限界。あたしの中で何かが爆ぜた。パチンという音が確かに聞こえたし目の前がくらくらとした。情けなかった。梅毒になって彼がよその女ともしているということが発覚しもうパニックになって8階の窓から飛び降りてやろうかと考えた。
 あたしは少なくとも彼は他の女を抱いてはいないと思っていた。奥さんはもう関係ない。奥さん以外の女ともなんて。じゃあ一体あたしの存在ってなんだろう。くそにもならないじゃねーか。好きと憎しみは背中合わせでもう昨日までの好きが今は急に色あせてはじめていた。
 こんなにも好きで風呂釜満タンくらいの涙を流したのに。終わる時は呆気ないものだねぇ。とつい口が滑りそうになりうつむいた。
「コロナウイルスよりも怖いのに感染したな。参ったよ。本当に悪いけれど病院に行ってくれ。すまない」
 すまないって、あたしはもう聞き飽きたとばかりに頭を抱える。
「バカ」
 隣にいる彼に抱きつく。作業着の彼からは太陽と埃と懐かしい香りがした。温もりがただ欲しかった。誰かの温もりが。いや彼の温もりが。
 あたしはようやく不倫の終焉を悟った。悟ったけれどもういいやって好きじゃないもうって思った。
 もう彼に抱かれることはない。
 結局うやむやになったけれど感染源の特定がよくわかならない。
 好きという複雑でけれどどこか幸せで余裕がなくけれど彼と会うのだけを楽しみに生きてきた世界の中で彼を失ってしまった今あたしはなにを拠り所にし生きていけばいいのかわからない。
 愛する人のいない世界は自由で奔放で何処へでもいけ不毛な涙など流さなくてもいいし胃も痛くしなくてもいい。
 愛する人のいた世界はけれどそれ以上に自由で世界がいつも輝いていて太陽にさえ月にでさえ感謝をしていた。
 失った心はもう取り戻せないことは知っているしもう絶対に恋なんてしないと心に誓う。
「どうであれもう連絡はしてこないで」
 最後の足掻き。さよならはあたしからいうって決めていた。彼は俯いて黙っている。一体今なにを考えなにを思っているのだろう。
 彼の顔がまともに見れない。けれどあたしは今顔を歪めておいおいと泣いている。彼の胸の中で。おいおいと子どものように声をあげて。

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