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9月29日

 海が見たい。と彼にいうと何もいわずに車を走らせた。気分がおそろしく悪く朝から精神安定剤をラムネのよう噛み砕き重たい頭を引っさげて彼との待ち合わせに出向いた。あたしの顔を認めた途端ぎょっとした顔をしたのは気のせいではない。本当に顔色が青白くなっていたそうだ。そのときにいえばいいものを彼は海についてからそのことを切り出した。
「ちょっと寒くないか?」
 てゆうか自分が寒いんでしょ? とあたしはクスッと笑う。なにせ彼は半袖だったのだ。
「いや別に……」
 やせ我慢をしている彼がとても愛おしく感じてしまいそのまま彼の胸におさまった。海は凪いでいた。海は相変わらずな顔をして波を連れてきては返しそれをあくこともなく繰り返している。秋の海原であたしの気分はやや上位の方になっていた。
「どうした? また発作か? それとも腹減った?」
 彼の声が胸の中から降りてくる。ううんと首をゆっくりと横に振りゆっくりと顔をあげゆっくりとまつげを開き彼の方を見やる。彼は海を見ていた。ポツンポツンと見える釣り人たちは潮の関係かパラパラと散っていき最終的にはあたしと彼だけが取り残された。とびきり大きな舞台になんてちっぽけなあたしたち。あたしは彼から離れて海の中に引き込まれるよう水際まで歩いた。彼は多分あたしを追ってきている。なんとなく風が彼の存在を運んできた。このまま海の中に入ってしまったらどうなるのだろう。
 そっと目を閉じる。
 波の音だけがあたしの耳に届きせつなキーンと耳鳴りがしたとおもった瞬間呼吸が出来なくなりあたしは海の中を彷徨っていた。
 あれ? なぜ海の中なのに呼吸ができるのだろう。あ、ハゼかな? あれは。たくさんいるなぁ。いつの間にかあたしの足は魚の尾びれになっていた。真っ赤な尾びれ。きちんと体の半分に分かれているしなにせ尿を出す穴まであり膣までついている。なるほど。人魚セックスするんだなぁと自分の尾びれを見て納得するも人魚になった嬉しさに動揺が隠せない。どこまでもどこまでも泳げてしまう。実際あたしは陸にいるときかなづちだったのだから。どうしてこんなにもスイスイと泳げるのかがとても不思議だった。珊瑚の間にカニがたくさんいてぎょっとなったりヒトデを生で見てわおと叫んでいた。なんて自由でなんて心地がいいんだろう。いや待て待て、こんなのおかしいよだって人魚などおとぎ話だしそもそも声を魔女にあげて足を手にしない限り地上に上がれないじゃないか。あ、でもあたしはもう辛い恋などしないと決めたから声を売る必要などないのかとそこまで考えてホッと胸をなでおろす。ゆらゆらと海の中を彷徨ううちにあたしは一体どこに向かっているのかわからなくなってふと後ろを振り返る。
「ん?」
 彼がスッとぼけた顔をしてあたしの顔を見つめている。
「あ、ううん。なんでもないよ」
「なんかさ、今、どっかいってた?」
 なにそれ、とあたしはクスクスと笑ってこたえる。どっかにいっていたよ。きっと海の中に。それも人魚になってね、とは頭がおかしいとさらにおもわれるのでいうのはやめておいた。
「いや、海は大きーなぁーとおもっただけ。海っていいね。いいねボタンを何千個も押したいね」
 至って元気な声を張り上げてふふふと口角をあげて笑う。彼も笑っていた。
 どうしていつもいつもこんなにも生きているのが辛いんだろう。海の中は少なくとも安全だったのに。現実に引き戻されたとき急に悲しみが襲って身震いがした。ちょっと寒いのかもしれない。
 え? 体が急に重くなりそれは彼があたしを背後から抱きしめていたのだ。大丈夫、大丈夫、俺がいるじゃんとでもいうように。そうね。そうかもしれないね。あたしと彼は心の中で会話を交わした。凪いだとても凪いでいた時間だった。
 ハンバーグが食べたいというとマックに連れてかれてぎょっとなった。いやいやマックじゃないしなとおもいつつもチーズバーガーポテトのSとコーヒーをテイクアウトして彼の部屋に戻り一緒に食べてうたた寝をした。このまま時間が止まればいいのに。あたしは彼の寝息を聞きながら目を天井に向けてそっと涙を流した。足はきちんと2本ありもう尾びれではないことに泣けたのかなぜ泣いたのかよくわからない涙はカサっと音を立てて枕に落ちてゆく。

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