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にんしん? 4

 女が妊娠したらしいという。
 俺の名前だけが書かれたメールが来たとき、なんとなくそんな気がしたのは、あれほど血ばかり流していた血がここ最近全く見当たらなくなったからだし、なんとなく体がなんというか膨張しているふうに感じられたからだ。嫁さんのときはどうだっただろうかとその昔の記憶を辿ってみる。しかし昔過ぎていてちっともおもいだせそうになかった。とゆうかそんなこと1ミリも気にしていなかったという方が正しい。
 若かったといえばそうだし興味がなどなかったといえばそれもそうだしとにかく妊娠というものこの歳になり女によってあらたに知ることになった。
『まさか』『妊娠したか?』というメールを夜中にし朝起きると『そうかも』というような返事が返ってきていてぎょっとなった。『今日会えるか』とまた送るとやや時間が経ってから『うん。いいよ』というなんとも軽い感じのメールが来た。
 直接あって聞いた方がいい。女は嘘をつくとすぐに顔や態度に出る。あえばすぐにわかる。『現場出るときメールする』と現場事務所からメールを打ち、ホワイトボードに書いてある工事の予定表を見つめながらアイコスを手に取る。パンパンに詰まった予定表に目が回る。来週にまた検査。今回の建物は単純な倉庫なのにやけに検査が多い。監査員がその都度チエックをしてくからその度にヤキモキしてしまう。
「ここまあ5ミリ? あ、けどまあ4ミリに、しておきます」
 とまあすごく厳しい。ズレの許される範疇が7ミリ。鉄骨がずれていたら叩いて直したりもする。いくらまっすぐに立てたとしても人間がやることだ。いくばくかのズレは生じる。監査員は毎回違い、来週は女の監査員がくるという。俺はため息をつき、アイコスの煙を吐き出す。他の現場の図面を書き直そうとパソコンを開くと建材屋のオヤジがちょうど現場事務所にひょいといったふうに顔を出す。
「おい」
 オヤジとは20年来の付き合いだ。65歳を過ぎている。しわしわの額がしわしわになった紙を持って俺に話かけてくる。
「おいよ。サインしてくれんか。持ってきたよ。外に置いてある。重機のあたりに」
「ああ、そこかぁ……、いや、いいよ。材料が積んであるところに置いといて」
 なんで重機の近くに置くかなぁといおうとしてやめる。
「お疲れさん」
 おもてに目を向ける。さっきまで晴れていたけれど分厚い雲がたちこめている。雨が降ってきたらまずいな。そうおもっていると
「忙しそうじゃないか。監督よ。他にも現場見てんだろ?」
 その声はひどくしわがれていた。オヤジ歳食ったなぁとひしひしとおもう。
「3つ、かなぁ? あ、違うか、4つ?」
「おいおい。そんなに稼いでどうすんだ」
 女あそびする暇もねーじゃねーかと最後に付け足しがははと笑う。
「そうそう、俺よ。とうとう本物のじいちゃんになっちまったよ」
「え?」
 これこれ、とオヤジがお腹を大きく撫でる仕草をしてみせる。
「え?」
「だから、娘がさ、なぁ」
 あああ、とうなずき、おめでとうと多分引きつっている顔をし笑う。
「今な6ヶ月」
「え?」
「なんでぇ? 監督さっきから、え? ばっかりいうとるよ。そんなにおどろくことないじゃねーかよ」
 たしかにそうだった。けれど『妊娠』というキーワードは今の俺にはひどく身近に感じたのだ。
「6ヶ月……って、お腹もう大きい?」
 今度はオヤジの方が、え? と素っ頓狂な声をあげる。
「監督子どもいるんだろ?」
「まあ、ええ、けど、デカいんで」
 ヒロユキさんくらいかなといいまたがははと笑う。ヒロユキさんとは俺が雇っている同じ現場監督だ。ヒロユキさんはたぬきのようお腹が出ているフィリピンパブが3食の飯よりも好きな53歳だ。
「へー」
 真顔でこたえた。時計を見ると15時過ぎを示している。時計を見たのを認めたオヤジが、ああ、すまねーなと談笑をしたことを詫びるよう、じゃあなと一言だけいいのこし現場事務所をあとにした。
 結局図面は書けなかった。パソコンをシャットダウンし、外にいる職人に声をかけ今日はもう戻る旨を伝える。
『今から現場出る』
 スマホに指を滑らす。おもてに出ると少しだけ冷たい風が頬を撫ぜる。雨が降りそうな降らなさそうな曖昧な雲行きだった。
 娘が妊娠。不倫をしている女が妊娠。
 同じ妊娠でも喜びが全く異なる。子どもっていうものは歓迎されて産まれてくるものばかりだとおもっていた。子どもが本当にできていたとしたら。俺が独身だったら。喜んだだろうか。いや、今の気持ちがどうなんだろう。申し訳ないけれどどうか夢であって欲しい。嘘だといって欲しい。そちらだけを望んでいる。
 今の俺の立場で産んでもらっては困ってしまう。しかし。とふと考える。本当に俺の子どもなのだろうか。俺はタネなしではなかったのだろうか。そんなにいとも簡単に妊娠などするのだろうか。
 仕事のこともあるのにこんなことに頭を使いなくはなかった。付き合って6年、いや、7年目か。こんなに長く続くなどとはおもってなどいなかった。好きという気持ちは最初だけであとはきっと体だけが好きだった。心などいつかは飽きる。体だけは結局のところ誰でも同じで塩梅がいい穴があれば飽きることなどはない。肌が合う。それはおそろしいほど狂おしい麻薬のようなものでやめることができなくなっていた。性欲に支配されたといえばそれまでで他の女を抱いてはみたことはあるけれど全くよくなかった。慣れた肌。慣れた体位。慣れた声。慣れた愛液……。
 体の相性だけで愛だと誤解するのは女だけだ。男は違う……。とはいいきれないかもしれない。俺は好きではない。好きにならない。好きなのは体だけ。いいきかせているのだろうか。わけがわからないまま、ただなんとなくハンドルを握りしめていて降りないとならないインターチェンジをいつの間にか通り過ぎていた。
 横からものすごいスピードを出し真っ赤なボルボが俺の車をブーンと風のように追い抜いてゆく。
「血……」
 なんとなく体内にある血液を彷彿させ身震いがした。

 続く

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