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《記憶の残り香》

 体にしがみついてくる湿気を振り払う為にお風呂に向かった。浴室に入り、違和感を感じた。いつもとは違う香り…昼につけていた蚊取線香の香りが浴室に充満していた。蚊取線香とはタバコの香りに似ていた。好きだったあの人の香りだった。タバコが嫌いだった私が、タバコの香りで安心出来るようになった人。笑顔も怒りも涙も恥ずかしささえ、常にあの香りと一緒だった。毎週のように会い、笑っていたあの人は今やもう他人なのだ。窓から射し込む車の光で我に返った。薬指の輪をいじりながら玄関のドアが開く音を待った。

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