映画『ありふれた教室』を観た
映画「ありふれた教室」を観た。ドイツの中学校で多発する盗難事件。生徒たちは疑われ、学級委員が呼び出され、疑わしい生徒がいるか問われたり、男子だけが教室に残され、財布の中身を確認されたりする。強制ではなく任意だと言われるものの、「見られて困るものがなければ、構わないでしょ」といった言葉が出てくる。盗難事件を解決するため。子どもたちのため。そのような中で疑い合い、誰が本当のことを言っているのか、何が真実なのか分からなくなっていく。落ち着いていた教室も、次第に秩序を失っていく。
この映画を観て思ったのは、本当にありふれた教室だということ。何か特別大きな事件が起こるわけでもない。ただ淡々と進んでいく。その中で、徐々に教室での子どもたちとの関係性、職員室での同僚との関係性が崩れていき、それをどうすることもできないもどかしさが続いていく。新任教師の主人公カーラ・ノヴァクは、周囲に翻弄され、混乱しながらも、最後まで子どもたちと向き合おうとする。教育熱心で、学校の行う調査に関しても懐疑的だ。
ノヴァクは、最後まで丁寧に話を聴いてもらうことができないでいた。様々な葛藤を抱えながらも、それを打ち明けることが許されない。ゼロトレランス(不寛容)方式の学校は、教師に対しても厳しい。校長は彼女に対して味方でいるようで、いつも指示的だ。重要な問題に関しては「黙っていて」と言う。ノヴァクは様々な葛藤と共に、問題を抱え込んでいく。
次第に生徒たちも、ノヴァクに対して不寛容になっていく。朝の挨拶を拒否する。「あの儀式は先生のためにやってた」と話し、「あんなのは恥ずかしい」と言い始める。それによってもノヴァクは悩まされる。
改めて、教育という仕事の不確実性と、子どもという存在が決して扱いやすいものではないことを再認識させられた。私が教育を研究しようと思った原点も、そこにあったはずだ。教師たちの生徒を手なづけるような関わり方に、生徒として学校に通っていた際に違和感があった。学校以外で出会っても「先生」らしさが強く出ている人に対しても違和感があった。こうした違和感の正体が何かを探ることが根本にあったわけだし、子どもはそこまで単純じゃないという思いもあった。それを思い出した。だからこそ、教師の専門性に興味があるわけだし、それを支える協働のあり方には、より強い関心がある。子どもたちがより一層多様化していく現代において、1人のスーパー教師が対応できることは少ないし、そうした幻想に基づいて教員養成がなされることにも違和感を覚えている。
話が逸れてしまった。この映画は、様々な問題を浮かび上がらせる。個人としての教師と組織人としての教師。生徒と教師、保護者との関係性など。その中で、ほとんどすべてのシーンが学校で構成される。教室、職員室、廊下、体育館。ノヴァクの家も出てこないし、その親も出てこない。そうした作りそのものが、ノヴァク自身の狭められていく視野を表しているようにも思える。そうした無駄のない映像は、見るものを最後まで引き付け続けた。