自らの知る能力を疑うことと道徳的事実の絶対性を疑うことの共通点

丸山俊一(2018)『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』(NHK出版)を読み終えた。マルクス・ガブリエルは、資本主義を一つの「ショー」だと捉える。

「モノを生産する」(produce)という言葉の語源は、「前面に導く」という意味です。つまり「モノを生産する」とは「前に導く」=「見せる」ということです。つまり、「資本主義における」生産は、ある意味でショウなのです。(p.14)

そのショウにおいてどのように見せるかを考え、セルフプロデュースしたのが、マルクスではないかとも思える。彼は「世界は存在しない」という言葉で話題を呼んだ。ペンも宇宙も数字も存在する。しかし世界は存在しない。そのような全体を捉えるような概念というのは存在しないのだという。

自分の机には一つのコーヒーの入ったマグカップがある。しかしこれが一つであるとは言えない。割れて二つになれば2つになるだろうし、量子学的な視点で観察すれば、もはや1つではありえない。このように、マグカップ一つを取り上げても、それを一つの全体としてとらえることは、究極的には出来ない。だからこそ、「世界」という全体は存在しない。世界と呼ばれるそれは、一つ一つの「モノ」によって構成されるが、その全体を神のような視点を持ってまとめて定義づけることは出来ないのだという。マルクス・ガブリエルの本を読んだわけではないので、微妙な理解にとどまるが、なんとなく分からなくもない。今度マルクス・ガブリエルの著作も読んでみようと思う。

この本の中で面白かったのは、「僕も正しければ、君も正しい」という相対主義は、常に正しいわけではないという部分。「○○と考える人もいれば、□□と考える人もいる」と捉えるのは、一般的には良いことのように思える。性の多様性なども、そのような相対主義的な考え方によって肯定されるだろう。しかし、「子どもを拷問してよいか」という質問に対する答えは、相対的であってはいけない。それは絶対的に「no」であるべきだ。

それは、「子どもを拷問するべきではない」といったような絶対的な道徳的事実があるということを直ちに証明する。だがもし一つの道徳的事実があるとすれば―今提示したけれども―絶対的な道徳的事実(moral facts)が存在するということと、道徳的相対主義は正しくないということが分かる。僕らは道徳的事象に、選択肢など一般的に持たない。(p.152)

よく道徳的な事象について扱う時、教師は「相手の立場になって考えてごらん。叩かれたら嫌でしょう。」と言いがちではないかと思う。この言葉のみを取り上げてみると、非常に怪しい気がしてくる。この言葉からは、道徳的な事象についても「相対主義的」に考えるのだという意識が感じられる。だが同時に、その教師の言葉の裏には「誰でも叩かれると嫌に決まっているでしょう」といった絶対的な道徳的思考も感じられる。相対的であるとしながら、裏に絶対的な道徳的事実を隠しているような物言いをするのは何故か。それが気になってくる。

道徳的事実は絶対的なものでなければならないとすれば、知識や科学的事実についても絶対的である。それをどのように捉えるべきなのか。知識や科学を相対的なものだと見て、それを疑う。この姿勢は、都市伝説などを信じる人にも通じる。「地球が丸いらしいが、自分は見たことが無い」と主張してフラットアースを掲げる人もいる。知識や科学などを疑うというのは、自分の知る能力を疑うということでもある。

要するに、あなたが、あなた自身の知る能力を疑うということ。そしてもしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあなたはあなた自身の道徳観を攻撃するようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。そしてこれは道徳的間違いを犯す可能性を高める。(p.155)

自らの知る能力を疑うことが、自らの道徳観を攻撃し、道徳的事実が絶対的であるとも理解できなくなるということだろう。この関連性の指摘はなるほど、と思わされる。そのような前提のもとに立つと、「私は勉強ができない(私は知る能力がない)」という、時折自己肯定ができなくなっている子に見られる言葉は、どのように解釈しうるだろうか。勉強において劣等感を抱き続けると、道徳観をも理解できなくなる(信じられなくなる)のではないか。絶対的な知識や事実はないのだ、すべての事象は相対的でしか存在しえないと理解することを繰り返すことで、道徳的規範や道徳的事実についても素直に受け止められなくなる。たとえそれが絶対的なものであったとしても、相対的なものとしか受け取れなくなる。このように捉えると、もう少し考えが深められそうだ。

最後に、この本で紹介されているマルクス・ガブリエルの日々の生活リズムを、ここでも紹介したい。結構独特だ。

私の完璧な一日…仕事がある日の理想的な過ごし方は、次のような感じです。起床は8時30分、いや8時15分かな。完璧な一日だとするなら8時15分ですね。それより早すぎると疲れるし、遅すぎるとペースダウンしてしまいます。8時15分が完璧ですね。8時15分に起きて、強いエスプレッソを三杯飲んでから机に向かう。机に向かうのは8時30分。遅くてもね。8時29分でもいいですよ。そして執筆を開始。12時までです。12時までは休憩は取りません。水くらいは飲むかもしれませんが。
12時になる頃には空腹感に襲われているので、自分で何か料理します。盛大に作って、モンスターのごとく食べます。食事が終わるのが1時30分。その後はスケートボードなどのくだらない番組を見ます。テレビでなくてもいいですね。本当にナンセンスな動画、スケートボードやヒップホップとか、最高にナンセンスなものがいい。知性が破壊されるくらいのね(笑)。それにはアメリカものがいいですね(笑)。それから昼寝をして、2時10分に起きます。エスプレッソを三杯飲んだ頃には3時30分になっている。朝より少しペースダウンしていますね。そこからは読書の時間です。200ページ読みます。そして7時になったら、いつもやるのは、おいしいワインを空け、5時間テレビを見る。それを繰り返します。夜中12時に寝て、朝8時15分に起きて…。これが本を執筆するときの生活リズムです。実際もこんな感じですね。(p.228)

テレビを5時間見るというのが、結構衝撃的だ。多様なメディアを通して、思考しているということだろう。

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