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ニューノーマル

さて、何を書こうかな。と、注文したお茶を待っていた。たった今。


運ばれてくると同時に、旅の思い出話を少し聞かせてくれた。

お話だけ。写真を見せてくるわけでもない。なんだかそれが新鮮だった。

そういえば年配の方と話している時には、写真(画像や動画)を見せられる事はないし、会話の途中で分からない事があってもその場で調べ始める事はない。

「今、こんな感じ」

地球の裏側。昼なのに夜が見れる。赤道の向こう側。冬なのに夏が見れる。

なんだかそれが当たり前になり過ぎている。

「その時、こういう感じだったんだ」

スマホが普及する前、冒険が大好きな友人たちとの写真の出てこない夜を思い出す。

あの楽しさ、久しく味わっていないかもしれない。



と、書きながら写真で伝える。時代病な私。

ほぼ365日、定点観測している場所がいくつかある。毎日見てはいるけれど、この時間のそこの姿しか知らない。

私にしか見えていないものがある。
逆に言えば私には見えていないものがある。


どうやらインスタグラマーの世界は、私にはまったく分からない感覚の世界のようだ。

クラシックはこの数年間、そうはしたくないのだけれど、写真は1枚までとしている(写真は大好きなのに!)

宗教の違いのようなものと、諦めがつくような悪気のないレビュー投稿。(メンション付きなので目にする事になるのだけれど、見る事のないこういうのが沢山あるのだろうな)

個人的には店内がかなりお洒落なので勿体ないと思うけど

それに対して共感のコメントがいくつも寄せられている。

素敵なお店なのに店内撮れないのは勿体ないなーって


アフターコロナのみの話ではない、アフタースマートフォンのニューノーマル。

私には見えていなかった世界が、私に影響が及ぶ足元まで忍び寄っている。

自分だけの世界に閉じこもっていたら、いつの間にか違う宗教がmassになっていた。

そんな世界で、minorityによるminorityの為のお店は存続し得るのか。

どこまでやれるのか、楽しみである。

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