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喫茶店は都市の森

驚いた。

いま、都会の方では喫茶店はショービジネス寄りの存在になっているのか。

思い返せば、バリスタ×ラテアートからその流れはすでに始まっていて、snsブームがそれに火をつけた。

それまでは、たとえば純喫茶でマスターがネルドリップで淹れている間はピンと空気が張り詰め、客はその美しい所作を無言で見つめたり、目を閉じて立ち上る香りを楽しんだりしていた。

今や皆一様に、淹れる工程を最初から最後までずっと動画に撮っている。

飲食店の投稿をよく見ているので、高級なお鮨屋さんでの動画もオススメでよく流れてくるけれど、握っている様子を撮り続け、そのまま手に乗せてもらうのがテンプレート化しているようだ。

一貫だけならまあ分からないでもないが、最後までずっとだ。中にはカウンター上に三脚を立てている人も。

提供側もどんどん拡散されていくそれに酔っていく。ソレ用の振る舞いも身につけていく。

(何を目指して料理人になったんですか?最上のものを一流の技術で出しているのに、そんな風に消費されるなんて虚しくないですか?申し訳ない、心の声が漏れ出て抑えられない)

おそらくもう、純粋な飲食店、居合わせるみんなが純粋にその空間に没入するグルーヴ感は、創っていけないだろうと諦めの境地だ。

タイムラインをスーッと流しながら、ビシッと目に飛び込んできた知人のツイート。

昔、喫茶店のマスターに「趣味は何?」と聞かれて「喫茶店巡りです」と答えたら「それは趣味とは言えない」と否定された時のことをずっと忘れられないでいる。

私は喫茶店が必要な人の為に店を営んでいる。言い方がとても難しいけれど、喫茶店が好きな人の為ではない。(以前の喫茶店愛好家の"好き"とインスタグラマーの"好き"は違い、この言葉は後者のことを指す)

「ニーズ(本当に必要なもの)とディザイア(欲しいもの)はずいぶん離れているものだと思う」
星野道夫 長い旅の途上

自然の側で暮らしていれば、喫茶店なんて全く必要のないもの。しかし、社会の不条理に心身を削られながら都市で生き抜く為には、できれば喫茶店が必要な人種もいる。

はみ出し者と世間から見られ、自身もそれを自覚している、多数派の造る社会に馴染めないひとびと。

私も自分の店から一歩出ればそのひとり。

喫茶店は都会の森だ。いつでも駆け込めて、深呼吸できて、時には心が躍る出会いがある場所。

守りたい。せめてギリギリまで延命したい。私が沢山救われてきた喫茶店という場所。まったく脈絡のない新しい繋がりや成長のきっかけを沢山もらった喫茶店という文化。


前回のその後。4人組の4人目の書き込みはなかった。そのかわりにクラシックを必要としてくれている人が、星5と温かいコメントを寄せてくれた。

低評価が付くと大切なお客さんたちが傷付く。開いといたらやっぱり荒れるのだろうかと実験的に開けていたけれど、また様子を見て表示上は閉業にするかな。(Google mapに表示されないようにしているお店があるのだけれど、あれはどうやってやっているのだろう)

個人経営のお店は多少closedであった方がいいと私は思う。フォロワーが何万人もいた所で、席は数えるほどしかないのだから。

2度と会わない、消費を目的に来る人たちに奪われた時間は、同じ人と何度も重ねていけるはずだった時間だから。

一息つこうと思って入った喫茶店で、客が総出でカウンターの向こうにカメラを向けている光景だったらギョッとするだろうな。

路面電車終点の漁師町。歩いていたら見つけた、どうしても気になる看板のない店のコーヒーマークのドアを勇気を出して開ける。

アブナイ、ハズレなお店かとギョッとして、奥の方の席でソワソワしながらコーヒーを待つ。ひと口飲んで少し空間に馴染んだころ、おや?意外といい感じかも、ここは私の居場所になるかも、また来よう。そう思ってもらえるような、そんな店でありたい。

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