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FDAによるB17撲滅作戦

FDAによるB17撲滅作戦~「B17 第2巻 癌クリニックの体験」(1979年初版発行 著者:ジョン・A・リチャードソン 訳者:渡辺正雄、河内正男、小笠原治夫 監修:河内省一 ノーベル書房)を紹介します。
※で囲んだ文章はシン・説が僭越ながら解説している部分です。
 
※B17療法医師への弾圧を取り上げた回でアメリカでの第一人者ジョン・A・リチャードソン博士も州政府から医師免許停止、逮捕、二度の投獄、4回の裁判を受けたと書きました。
今回はその詳細で、政府の役人が陪審員を買収していたことや、その役人は博士が診察した患者や家族に告訴が成功したら2500ドルの謝礼を渡すと近づいていたことがありました。
また、大勢の医療スタッフを抱える診療所運営に必要な銀行口座間の資金移動を二重三重の所得とみなす誤報を政府に発表され、人の苦しみにつけこんで暴利をむさぼる悪いやぶ医者との風評を流されました。
しかし、実際にはリチャードソン診療所で全治療コースを終わった患者の平均コストは2500ドルくらい。これに対して、外科手術、放射線療法、化学療法の一つまたは併用の治療では、平均3万ドルとのことです。
また、州政府があらゆる法的手段を取りそろえた背後には、連邦FDAが指導していました。
10分の1以下の費用なら医療保険が高いアメリカでは費用面から大衆に受け入れられそうなものです。ゆえに金儲けできないことを嫌う勢力は躍起になって妨害したのでしょう。
一方、日本の国民皆保険はすばらしい制度ですが、治療間の費用格差が意識されにくいだけに大衆がビタミン療法に向かいにくいかもしれません。撲滅作戦を展開せずとも、「インチキ療法」のプロパガンダを流すだけで、阻止できるように思います。※

 

撲滅作戦 前門は州政府、後門はFDA


1974年6月10日、米国連邦医薬品食品局(FDA)はB17提唱者に反対する症例をつくり上げるために情報収集の要請をアメリカ全州と地方の保健機関に送った。
FDAが直接乗り出してきたB17撲滅作戦は1975年2月に始まった。
米国連邦裁判所執行官は、ミネソタ州、アラバマ州、ワシントン州、ウィスコンシン州、オレゴン州でB17の入出荷を押収した。
リチャードソン診療所の初期の治療コースを終えて、それぞれの故郷で維持量のB17をつづける患者の使用分が差し押さえられた。
B17を押収した各州当局が出頭の召喚状を出せるようになり、私は各州で弁護士をもち、裁判のたびに各州に出頭し、審問と訊問調書を取るために出席を要請されることになった。
これと同時に税務調査官が診療所に立ち入り、利益のなかった1973年分に1万9000ドルの税査定が執行された。
1976年5月2日には重要な審問に出席しようとすると、数人の税関官吏につかまえられ、手錠をして拘置所に拘引された。同時に私のアルバニーの診療所を5人の警官と5人の官吏が包囲し、ラルフ・ボウマン事務長を連行監禁した。保釈金はそれぞれ2万5000ドル(強盗や強姦の釈放金が5000ドル以下であるのと比べて、これは途方もない金額であった)だった。
ラジオニュースで私の逮捕を知った妻が保釈金を調達したが、受け取りを拒否された。私は2500ドルの費用で保証人をつけるようにいわれた。
事務長は釈放されたが、私はB17の密輸入に協力し、受領にも同意したとして連邦政府の起訴を受けるために、サンディエゴ(※カリフォルニア州最南端)への出頭を要求された。
 

週1回1920キロの移動を半年以上強制される


この時から、私は自分のアルバニー(※同州北西部)の診療所とサンディエゴの裁判所の間の往復1200マイル(※1920キロメートル)の道を毎週一回、それも六カ月以上強制出張させられた。※日本列島本州の長さは1500キロ。毎週それ以上の距離を移動させるなど常軌を逸した嫌がらせとしか言いようがありません。※

定期的訪問のために現地で「来週に延期された」と聞かされることもしばしばあった。開廷しても審問はほとんど10分から15分で終了した。

私を十分に締めつけておいて、今度は背後からFDAが攻撃を仕掛けてきた。
FDAはカリフォルニア州医師審査委員会に「リチャードソン博士はB17療法の方がよいとして、患者の外科手術をおくらせ、放射線療法をさけるように強く要望した。かれの癌療法は無責任で危険であるので、貴評議会の特別な注意を促したい。FDAは評議会がカリフォルニア州でのリチャードソン博士の免許を取り消すように強く要望する」との手紙を送った。

※私がこれまで多くの書物や映像で見てきたさまざまな陰謀において、共通しているのは陰湿、執拗な手口です。これらのエピソードはまさにFDAを動かせる彼らの父祖から始まった家業の一環であり、子孫たちから突然変異で善人が現れることは決してなく、その手口は陰湿さ、執拗さを増していきます。※
 
カリフォルニアでの医師資格審問とサンディエゴへの出頭要請はFDAに仕組まれて重複した。1976年8月のカリフォルニア審問に私は欠席し、結果は決まっていたが、同年10月医師免許を取り消された。
幸運にも診療所には他に3人の勇気ある医師がおり、診療業務の妨げにはならなかった。
しかし、この行政審問の内容は何一つとして合憲的ではなかった。たとえ、政府機関の人でも法に従う義務を彼らに思い出させる時期が到来した。この憲法違反の推進に参加した一人一人に法的訴訟を準備して、総額6500万ドルの損害賠償料を請求した。もし、この訴訟に成功したならば、その純益金はB17の研究のためと、その一般市民の教育プログラム運動に寄付する予定である。
 

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