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「余命3か月」と言われたが、3年半も元気な不完全除去で転移もあった卵巣癌女性

「余命3か月」と言われたが、3年半も元気な不完全除去で転移もあった卵巣癌女性~「B17 第2巻 癌クリニックの体験」(1979年初版発行 著者:ジョン・A・リチャードソン 訳者:渡辺正雄、河内正男、小笠原治夫 監修:河内省一 ノーベル書房)を紹介します。
※で囲んだ文章はシン・説が僭越ながら解説している部分です。
 
※今回は女性器の癌の病歴例ですが、相手が女性だからか、医師からの余命宣告がいとも簡単になされているような気がします。突き放すような物言いとも感じました。
私見ですが、正統派医療は、特に癌の女性につらく当たり過ぎます。いとも簡単に乳房や子宮や卵巣を切除する延長線上には少子化、もっとはっきり言えば人口削減の容認があると考えています。
飲む中絶薬や遺伝子検査による乳房や卵巣の予防切除が女性の権利向上につながると言う人とはとても話ができません。※
 
【W166I】子宮および子宮頸癌の62歳女性
1976年3月膣内細胞検査で原発性腺癌と推定され、2か月後の検査でも癌と診断された。女性はすすめられた治療は受けず、最初の発見から3か月後の同年6月医師から手紙が届き子宮切除術とつづく放射線療法をすすめた。医師の手紙にはさらに「放置したら成行に責任は持てない」との忠告があった。
女性は1976年6月内にリチャードソン診療所を訪れた。1日1回9グラムのB17を20回注射、次第に経口投与に移行した。B17療法3か月後の膣内細胞テストでは癌細胞はまったく見られなかった。さらに3か月後の組織検査も陰性。
さらに3か月後リチャードソン診療所に寄せた彼女の手紙には、
<外科医の忠告は、私には大変なショックでした。死が迫っているのを痛感しました。私はカリフォルニア州サンタバーバラ出身のご婦人に会えて運が良かった。彼女はB17療法をやってすでに2年も経過し、乳癌をすっかり征服していたから。>
<特別な食事に切りかえて、初めの6週間は体重も減ったし、少し衰弱したとも思った。私にとって大切なのは、仕事と生活が両立できたこと。休まなかったし苦痛も起こらなかった。以前より身体に張りが出て疲れも感じない。>
 
【M158SX】卵巣癌の71歳女性
1973年6月腹部の苦痛と膨満で緊急入院。右の卵巣癌を切除したが、完全除去はできないほど拡がり、第六胸椎まで転移が起こっていた。放射線療法と化学療法をすすめられた。
女性の娘は「病状がかなり進行してあと3か月の余命と言われた。私たちは拒否したのにコバルト照射の日取りまで決められていた」
コバルト照射はやめてもらい、1973年8月からリチャードソン診療所でB17療法を始めた。治療約1か月で体重は6.8キロ増加、強壮さも取り戻した。3か月しか生きられないと言われたが、3年半も元気で過ごしている。不完全除去のうえに脊椎までの転移があったケースとしては大変印象的だ。
 
【M122T】子宮頚部癌第一期の55歳女性
1975年2月カリフォルニア州の病院で子宮頚部癌第一期と診断。手術は2か月後に予定された。女性の夫は心臓が悪く、女性は病気の件を隠した。女性の母が癌で死亡したのは手術と放射線療法を受けたためで、自分の手術は拒否した。
診断病院の婦人科医からの手紙「あなたは進行性子宮頚部癌です。勝手に二回も癌の手術予定をやめた。当方に急いで返事しなければならない。手術や放射線を受けないと3か月以内に死ぬ
1975年3月リチャードソン診療所でB17療法を開始。テレビで療法について知り、当診療所を見つけた。2週間で膣内細胞テストは陰性に。1年後女性は手紙で「手術をやめた後、医師2人からの電話で夫や職場に全部知られた。身体は力強く感じ、癌は制御できていると思う」。さらに10か月経過後も健康なままだった。
 
【B133L】子宮頚部癌の28歳女性
子宮頚部付近の激痛や分泌物の過多、疲れやすさの症状があり1975年11月から1976年1月にかけて計3回の検査の結果、子宮頚部癌と判明。手術を強くすすめられた。
女性はリチャードソン診療所を選び、1967年1月からB17療法を開始。3か月後苦痛は去り、おり物もなくなり、疲れも感じなくなった。同時期に3回目の検査を受けた同じ医師に検査を受けた。ビタミン療法を受けたことを知り冷笑したが、癌を示すものが何も出なかったため、言葉少なに立ち去った。
 

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