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「まるで夢のよう」(手術不可能な原発性骨肉腫の少年の母)

「普通の子どものようにすくすく成長している。まるで夢のようだ」(手術不可能な原発性骨肉腫の少年の母)
骨肉腫~「B17 第2巻 癌クリニックの体験」(1979年初版発行 著者:ジョン・A・リチャードソン 訳者:渡辺正雄、河内正男、小笠原治夫 監修:河内省一 ノーベル書房)を紹介します。
※で囲んだ文章はシン・説が僭越ながら解説している部分です。
 
骨肉腫(癌)の人で、B17療法を行わず、正統派の手術や放射線療法、あるいは、その単独療法に頼る人は、普通は診断後の十二~十八か月以内に死亡している。この点を考慮しながら、このB17療法の病歴例を読んでいただきたい。
 
【H150S】転移を伴った右上腕骨肉腫の少年シエン・ホートン君
※本書巻頭にB17療法前後の少年の写真(1973年と1975年)が掲載されています。不安げなホートン君の写真の右腕からは分かりづらいですが、X線写真では右上腕は真っ白に写っています。
3年後の成長したホートン君は塀をよじ登って笑顔を見せています。腕は体重を難なく支えています。X線写真も右腕全体が見違えるようにきれになっています。金や地位や名誉でなく、この笑顔を見たいという職業意識がすべての医師にあると信じたいのです。
本書では特別な了解を得たうえで実名と写真も目隠しをせずに掲載しています。※
 
ホートン君は6歳のときに両方のふとももと腕に痛みを訴えるようになった。1973年7月小児科医は骨の専門医を紹介したが、特別に心配することはないとX線検査もしなかった。しかし、少年は次第に衰弱し、真っ直ぐに立つのも不自由になった。1973年10月には右利きなのに左手を使い始めた。翌月物理療法医のX線撮影の結果、右上腕、および第三腰椎の骨肉腫と診断された。病院の総合報告では、予後の悪い肉腫の転移が認められ、放射線療法が行われた。
「少年の前途は楽観を許さない」「余命は6~9か月」
ホートン君の悲しいニュースが広まり、手助けの申し出があった中にB17療法の情報が寄せられ、母親がリチャードソン診療所の存在を知った。1973年11月末からB17療法が始まった。1か月もたたないうちに腕が少し使えるようになり、つり包帯の必要がなくなった。苦しみも次第に消え、元気を取り戻した。骨の酵素の値も大幅に下がった。
ホートン君の母親からの1976年5月当診療所宛の手紙には「普通の子どものように活動できるし、すくすく成長している。この子の経過はまるで夢のようだ」
母親は経済上の理由からビタミン療法の中止を余儀なくされた。しかし、できる限り指示された通りの食事の注意は守っていた。
少年は1977年1月リチャードソン診療所に検査に訪れた。その後カリフォルニア州の病院でX線をとってもらった。放射線医はこれが以前骨肉腫の患者だったとは容易に信じがたいようであった。
手術不可能な原発性骨肉腫は、事実上生存率はゼロである。しかし、ホートン君は生き長らえているし、最初の診断を受けてからすでに3年を経過している。
 
【R160PA】前立腺癌の前歴を持つ転移性骨肉腫の78歳男性
8年前に前立腺癌を切除した男性は1974年骨の精密検査を受けた。骨肉腫の疑いがあり、同年9月苦痛緩和のために女性ホルモン(スチルべステロール)療法を始めたが、膝の痛みとホルモン剤の副作用で苦しんだ。
何人かのB17療法経験者にはげまされて、男性はリチャードソン診療所に行く決心をした。1975年12月開始。翌年にはずっと快方に向かうのが自分でもわかった。元気を取り戻し憂鬱感にも襲われなくなり苦痛も胃の痛みもなくなった。
スチルべステロールは骨肉腫のちょっとの期間のコントロールには有効である。しかし、同時に血栓症を起こす危険性を伴っている。とくに老人で、すでに身体の一部に閉塞が起こっている場合は危険が大きい。骨肉腫は一時的に緩和するために女性ホルモン剤を使用した患者は、心筋梗塞症や脳卒中で死亡しやすい。この場合、死亡統計では、それぞれ心筋梗塞に入れられたり、脳卒中に組み入れられたりして、癌の死亡にはならない。
 
※これは日本の癌統計でも同じ問題があります。癌による死亡を別の死因にしてしまうだけでなく、治療薬の選択ミス、つまり癌治療死という分類は欠かせないと思います。統計の基準が正統派医療に対しても手加減がないようにしなければ、正統派癌治療はいつまでも自省せずに、漫然と癌治療死を増やすだけです。※
 

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