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【意見】現代の国語教育について

 日本国政府は、初等教育および中等教育の筆頭教科として、「国語科」を設置している。その実態と課題を確認したい。


1 法令上の立ち位置と指導パターン

 「学習指導要領」上では、話すこと・聞くこと書くこと読むこと、伝統的な言語文化と国語に関する特質事項(いわゆる学問としての国語学)の順になっているが、これらは人間の言語能力の発達の順番である。
 ところが、普通に教科用図書を使用すると、明らかに読むこと中心となる。次いで文法や漢字を習わせ、定期的に書くことを行う。ただ作文、あるいは話すこと・聞くことを基盤とする教材など到底存在していないのである。およそ、話すこと・聞くこと、書くことは読むことのついでに行っているに過ぎない。
 何を重点にするかはさておいて、マニュアルどおりに読むこと中心の設定に、国語を嫌う者が多数生まれているのは、そのとおりである。

 では、なぜ嫌われるのか。至極単純なことである。それは、読む手法が常に変わらないこと。物語文を読むにしても小論文を読むにしても、最初に展開の切れ目を基準に数分割し、それぞれを45分ないし50分かけて読んで、おのおので解釈させ、それを公言したい者だけが披露する時間をとり、最後はマニュアルどおりの解釈を押しつける
 なるほど、「自由に考えるように」といっておきながら、実は「正解」なるものが決まっていて、最終的にはその「正解」なるものに適合しなければ、評点に該当しないとは、何とも噴飯ものであろう。筆頭教科たるものがこのような二律背反を繰り返しているのである。

 国語学や文学としての知識を存在する正解と適合させて評点つけるのは、適切な言語解釈を養う上で欠かせないことである。しかしながら、それらの学問がなぜ存在し、なぜ習い、それがどう将来に影響するのかが示されなければ、存在そのものが危ぶまれてしまう。これは大変危惧されるべきことである。

2 国語科を学習する意義への疑問

 国語科の存在は果たしてどうありたいか。提言については次のとおりである。
 まず、上級学校への入学試験のためだけの道具に成り下がっている。たかが15歳ないし18歳の子がほんの1時間の試験を受けるために文章読解の手法を習うことなど、学問が長い時間をかけて形成されてきた事に比べ、ごく僅かでしかないのである。そのごく僅かをもって最終地点としていては、18歳を過ぎた途端に無用のものになってしまう。なんと勿体ないことか。
 通常、国家は国民に対して国家の形成に関わること、国家の維持に関わること、国家の一層の発達に関わることの言語的領域としての国語科を設定するものである。近世においては、それぞれの大名家が仕える者に儒学書を習わせた。意味を納得しなくとも、書物の中身を知り、解釈を述べることが出来れば知者として重用されるのである。対して、現代はたとえ国文学を暗誦し解釈できようとも、或いは国文法を正確に常用できようとも、然したるステイタスにはならない。なんとも空しいことではないか。

 次に、将来にわたって有用なものであるということが実感しづらいことである。小学校第1学年では、ひらがなを習い、カタカナと常用漢字の一部を習い、短い童話を浅い理解のまま読み、説明文の存在を知ることが出来れば国家にとって重畳である。なぜならば、それらは、読み書きの基礎であり、文書の必須要素に触れるからである。これらの能力は成人になったときも当然必要であるし、得なければ自己の責任でもって生活すること自体が困難になるためでもある。
 しかし、中学校第3学年ともなるとどうであろう。科学者の書いた回りくどい表現に満ちた小論文を読んで、技巧豊かな近現代文学作品を読んで解ったような解らないような、おおよそそうだろうと思うが腑に落ちず、わけがわからないが、それが答えだから覚えなければいけないと思い無理をするか、投げ出すか。ましてや言葉の通じない古典など、直接的な有用性に疑問を抱く者が多少なりとも現れる。

3 中等教育における国語科への嫌煙と指導の手落ち

 では、中学校第3学年に習う小難しい文章たちは一体何ものなのであろう。文章そのものではなく、文章を通して行うことを見ていくと、その正体が見えてくるがこのことについては後述する。実情は、文学的文章を取り上げる際に、文章中の語句から心情把握をすることにばかり傾倒しがちで、結局のところ、習う立場の者は何も得られていない。その原因は、次の二つである。

 一つは、解説の説得性が不充分であること。文章中に論拠となる要素はもちろん転がっているのだが、では、一体何故一読しただけでは解りにくいような文章が存在しているのかと言う根本を説明出来ていない。あるいは書いている当人がその観念に対する説明がうまくできないわけであって、なるべく誤解の無いように回りくどくなる。あるいはそれを逆手に取りわざと解りにくいように回りくどく書くようにして、そこに存在する違和感そのものを表現している。いずれにしても、いかなる著作の意図をも察することができるようにさせることが目標であり、心情把握などはその手段の一つでしかないのである。

 もう一つは、学習者の生活環境を加味せずに講じること。そもそも、人間の心情たるものは、個人の生活に影響するところが多く、学習者が文学的文章の著者の意図どおりに共感するなど稀有なことである。そのため、教授する者がいくら解説したところで、学習者に意味がわからないと言われてしまうのは仕方の無いことである。これは、教科用図書を制作する研究者にとっては理性に基づいて提示したものであっても、実際に学習者にとっては必ずしも理性的であると受け入れられているわけではないということであり、学習者の生活環境に漸近させた説明があってはじめて理解されるわけである。すなわち、文章と実生活との間に有縁性が生じるよう訴えなければ、心情把握など到底できないし、無理なのである。

 ところで、文学的文章に生活必需性があるのか。という問いに関して教授者が答えを持っているのか。または、実際になくてはならないものなのか。その答えについて、国語を嫌う者らが不必要であると述べるところである。もっぱら娯楽の道具であるとか、嗜好品であるとかいわれ、文化的価値を否定する者さえいる。
 なるほど、現状を見る限りは全くそのとおりである。世に何千何万とある書物の大半は実在する、あるいは過去に実在した特定の人物によって書かれたものである。しかし、それらが果たして書き手の理性をもって意図的に著されたものなのかという疑問が生じる。元来、著作物は書き手となる者がその生育環境から培ってきたさまざまな考えを発揮するものであり、いわば人生において研究してきた内容を表現しているものなのである。

 提示された書物と実際の生活環境に有縁性がなければ学習者は関心を持たない。現在の教科評点には「関心・意欲・態度」なるものが存在している。関心を持たないように仕向けておいて、この評価観点については落第印をおす。なんとも辻褄の合わないことではあるまいか。
 となると、心情把握ができることを評点の規準とするならば、教授者は国語学の師範であるとともに実践哲学あるいは心理学、ともすれば生物科学を習得した師範であろう。でなければ文学的文章の心情把握を中心に評点をつけるなどおこがましいのである。ただし、実践哲学は「道徳の時間」に行えばよいことであるし、「道徳の時間」に学問的な評点は存在しない。ただ、「道徳の時間」とは思想的傾向を測るだけである。

4 初等教育で行われる言語領域を用いた対応能力

 では、国語学・国文学とどう向き合うのか。実は高尚で人を寄せ付けないようなものではないことを、そろそろ覚えても良いと思う。
 
 小学校低学年においては、生活の基礎となる能力と直結しており、教科用図書はその点に関して融通の利くよう、主に童話や児童文学を中心にして構成されている。一例として、アーノルド・ローベル『ふたりはともだち』の一節「お手紙」のあらすじは、次のとおりである。

 主人公の「がまくん」は一度も手紙をもらった事がなく、悲しみに暮れている。これを見かねた「かえるくん」が「がまくん」への手紙を書く。その配達を自信満満の「かたつむりくん」にお願いするが、なかなか手紙は届かない。「かえるくん」はその間、「君に手紙が来るかもしれない」と「がまくん」を勇気付けるが、「がまくん」は気落ちしたままであった。そこで、「かえるくん」は「がまくん」に手紙を書いたことを内容とともに告げる。そこからふたりで「かたつむりくん」を待ち、手紙を受け取り、幸福をかみしめる。

小学校国語2年下「お手紙」要約

 では、これを使って何を身につけさせるのか。指導書は、この作品を読んだ後、「がまくん」が返信するという仮定をもって、それを学習者に考えさせるように内容構成を組んである。実は、心情理解などを求めることは無い。むしろ、登場人物の心情を根拠なく憶測することを牽制している。ただ単に文章から場面の状況把握ができること提示された文章から次への展開を想定し対処できることということだけである。
 その方法として、前者の場合は登場人物が何をしたのかという事実を列挙し、どう思ったのかという、小学校低学年児童が日常において普遍的に有する感性に基づく推定心情を集団内で列挙の上、共有し、その因果関係をまとめることで、後者の場合は「かえるくん」への返信を前者でまとめたことをもとに作成させることで実行される。この能力は、文章から状況を論理的に理解し、それに対して文章で提言する受容と表現の処理能力である。
 

5 中等教育で行われる時間的地域的領域を広げた

 基礎的な能力について修習させるのは、初期の段階で行われる。学年が上がるにつれてより抽象的な文章に触れ、論拠を証明することを修習するようになる。とりわけ中学校では、魯迅「故郷」のような、物語的文章の主人公視点と他の人物視点と物語を語る者の包括的視点で把握しないと読み間違えるおそれのあるものを教材としている。その上、最も敬遠される古典文学を導入し、よりいっそう多様性が増している。古典文学は大別して「近世以前の国文学」と「漢文学」とある。

(1)近世以前の国文学
 まず、「近世以前の国文学」として、平易なものとしては、『竹取物語』や『御伽草子』の一節を読めるようにする所からはじめ、最終的には和歌に至るが、その途中に『枕草子』や『徒然草』などの随想を取り上げることが多い。なぜ、『徒然草』なのか。その理由として、一つは、『源氏物語』をはじめとした中古の文学(貴族の文学)のように現代と大きく乖離する風習と言語的な技巧に富んでいるわけではないこと、一つは、人間の行動について考察した内容であり、一定の観念がはたらいていることである。

 仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。
極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。
 そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ずと言ひける。
 すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

中学校国語2・兼好法師『徒然草』第五十二段「仁和寺にある法師」

 岩清水八幡宮に参拝に行くといって、末社を参拝し目的を達成したものと思いこみ、本社への行列を興味本位で見たが通り過ぎて帰ってきた仁和寺の仏僧の話を通して、先導者の必要性を述べており、登場人物である仏僧に関する事前情報、行為の全容、結論が小さくまとまっている
 論拠を文中の語句に求めるのは容易で、かつ結論が見えているため、この章段だけを取り上げて終わるのは非常にもったいなく、本来は他の章段と併読し、その背後にある著者の思想を模索することで講読できるわけである。
 例えば、序段は兼好が文章を書くようになった動機についての記述がある。その動機は簡単に言えば、退屈なのでものを書きたいという異常な気分になったこととある。当たり前に起きている事象が、実は俯瞰してみるといろいろと気づくことがある。それを記録したくて仕方が無い衝動に襲われる。これが兼好の立場なのである。それを踏まえて第五十二段もう一度読むと、無味乾燥とした文書ではなく、書き手の意識的な行為に基づいているものであると知覚する。これが文学を読むことなのである。

(2)漢文学
 一方、「漢文学」は主に詩賦や史書などの文章が多く、そこに表現されている思想はほぼ一定している。特に儒家の思想に関するものが中心となる。

学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。

中学校国語3『論語』学而篇

 しかし、原文は2000年以上も前の外国語であるため、これだけで読むには情報が足りないため、どの字をどう解釈するのかを明確にしなければ、本来読めない代物である。補助として注釈本による解説を手掛かりに解釈していくことになる。

説は悦に同じ。学の言為るは效なり。人の性は皆善。(以下割愛)

朱熹『論語集注』書き下し文抜粋

 このようにして、説の字は悦(よろこぶ)のことで、学という言葉の本質は效(ならう=まねる)にあるという解釈で読むことができる。実は、教科用図書の解釈は朱熹の『論語集注』における注釈に基づいてつくられている。ただし、朱熹は孟軻の人間本性論「性善説」の補強としての理気二元論「性即理」の提唱者であることも理解しなければ根拠がつかめないため、とにかく、『論語』の取扱いは要注意なのである。
 これにより、海外からもたらされたテキストであっても、サポート資料を用いることによって理解することができるのである。

(3)講読の仕方を学習すること
 そもそも、講読とは、すでに存在する観念が文章にとして眼前に現れたとき、どう向き合い、どう付き合うのかという行為を、理解と表現に求めた実践哲学の言語的分野である。これは、文学を扱う以上は、形而上のものであるものの見方や考え方形而下のものである言語や文章の形になるし、史学を扱う以上は、社会の構造にまつわる法則と史料であるし、自然科学を扱う以上は、定理と現象が眼前に提示されるのである。いずれにしてもそれを理解してその後に再表現することとなれば、最も効率的な方法は、言語表現である。 

6 適切な国語教育により誹謗中傷とデマゴークの著減を目指せ

 思うに、国語科が存在し得るのは、近代国家として学制が施行される以前から存在した、相互の共通認識に基づいた生産性のある社会を効率的に運営するため、言語の形式から理性に沿った観念を言語の形式に還元する行為に由来し、それを国家が主体として国民に遍く修習する機会を与えるために必要だったからであろう。ところが、教授者が学習者各自の着実な理解を無視して一定の解釈を押しつけている。これでは社会に対し隷属的な者や、または隷属に耐えかね心神喪失をなす者が育つ。あるいは普段から隷属することをよしとしていても、本意ではないためにどこかで反動として暴をなす者が育つ。
 殊にインターネット上では、曲解や妄想に基づく表現がエスカレートし、デマゴークが氾濫する原因となっている。また、匿名性を隠れ蓑にした暴言にあふれ(ただし適切な開示手続きにより侮辱を事由とした民事訴訟は可能であるが)、また、妄想に基づく奇特な優越性をもって他者に不適切な言動をはたらく者も多くいる。それも高年齢に達した後では、聞き分けが悪く、それをいかんとも更生しがたい。したがって、若年期までに言語理性の成熟を醸成するため、初等課程から慎重な国語教育を推進しなければならないのである。

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