"メタ"ギミックの話

"ゴリラ漫画ゴリラ"で笑い転げて早1年、

今年もマヂカルラブリーno寄席を視聴した。

主催のマヂカルラブリーを中心として、

永野やランジャタイなど

地下ライブから活躍してきて

互いに見知った芸人同士が

ネタ中に野次を飛ばし合う、

自由な無観客配信ライブである。



今回も声を出して笑う箇所はあったのだが、

どこか総じて微妙だと感じてしまった。

昨年の面白さを超えないのはいいものの、

昨年のそれとは空気感から違うように思えた。

別物を見ているような感じだったのだ。



これは、当寄席の完成度云々ではなく、

私の見方の問題であった。

私は昨年の寄席で、

気心知れた芸人仲間の織り成す

ネタとガヤとを大いに楽しんだ。

そしてそれを今年も期待してしまった。

それは他の視聴者も同じだろうと思う。

昨年の寄席で、よしもとチケットオンライン

売上1位という目に見える形で結果を出した

寄席の出演者たちも、

その期待を意識せざるを得なかっただろう。

寄席の冒頭で客席から「ガヤのやり方忘れた」と

聞こえたのはその表れだったはずだ。

ネタ自体も、一番手のマヂラブが

2017年に上沼恵美子氏に怒られた因縁の

「野田ミュージカル」をわざわざ披露して

本人が野次の余白を作っていたように感じたし、

ランジャタイのネタは去年のネタの

"バスケ"の部分が"サッカー"になっただけで

全く同じネタだった。

あれ、文章にするとめちゃくちゃ面白いな。

ともあれ、どこか去年好評だったゆえに

ガヤ前提でネタが進行していったように思う。

ガヤをする方も最初はどこか気張っていて、

「死ね!」とか「解散しろ!」とか強い言葉に

なっていたり、演者に話しかけたり、

コントの展開を先に言ったりもしていた。

あれ、これも文章にすると面白いな。

その他の感想としては、

去年いなかったゴー☆ジャスは

ちゃんと面白くない滑り方をしていて

野次も飛ばされていなかったし

(みんなガヤに疲れていた)、

年長の永野が終始主導権を握っていて

ネタ自体も非常に面白かったが、

…あれ、総じて面白かったになっちゃったな。

視聴中はなんかグダっていて

無理があるように感じたのである。

この寄席の正しい見方は、

その地下ライブさながらの

グダグダ感を楽しみ、

ネタを真面目に見ないことだった。

私の姿勢のミスだった。

ちゃんと面白い寄席だったのに。



私が去年初めてこの

マヂカルラブリーno寄席を観て、

何が真新しく面白かったのかと言えば

大方の批評どおり"ガヤ"の有無だった。

漫才ないしコントを

ネタそのものとしてのみでなく、

その場にいる芸人のガヤ込みで楽しむという、

いわば劇中劇的なお笑いがあった。

これは「あらびき団」や最近でいう

「千鳥のクセがすごいネタGP」の

フォーマットにも近いものがある。

ネタを演じる人とその外側にいる人との

双方を込みで楽しむお笑いである。

視聴者が、演者の視点の外側にもまた

別の視点を意識するという意味で

"メタ"的なお笑いと表現したい。



この"メタ"的なギミックを使った

娯楽作品は多い。

漫才でいえば、前回のM-1の準々決勝で

大いに話題になったラパルフェも

M-1という大会の中でM-1と

そこに参加する自分含む漫才師の話を

漫才の中でしながら

観客に呼びかけるという「反則」じみた

ことをしていたし、

映画「カメラを止めるな!」も

ゲームソフト「UNDERTALE」も

作品そのものから一歩引いて、

視聴者やプレイヤーの思考を逆手に取って

また別の視点を加えて有名になった作品だ。



私がこのように(無理やり)括っている

"メタ"ギミックを使用した作品の

いずれにも共通する要素として挙げられるのが

「ネタバレができない」という点だろう。

娯楽作品における"メタ"技法は、

受け手が漫才を漫才として、映画を映画として、

ゲームをゲームとして楽しんだことがあるという

前提を利用した手法であり、

その作品を"常識"を持って

鑑賞してくれることを信頼したうえで

敢えてそれを崩すという

ドッキリのような要素があるため、

事前に知らされたり、

様式になったりしてしまっては

本来の面白さが半減してしまうのである。

一回限りをその場で楽しむというライブ感が

"メタ"的な娯楽作品には必要なのだ。

(もちろん仕組みをわかったうえで

もう一度楽しむということもできるが、

それも初見の楽しさが大きいからこそ

生まれる欲求だと思う。私はUNDERTALEを

記憶消してもう一度やりたい。)



要は、当のマヂカルラブリーno寄席で

終盤永野が叫んでいた

「型になったら一番恥ずかしい」

というのが全てを表していたのだろう。

私含め、ガヤをしていた彼らが感じていた

今回の寄席の違和感は、

あくまで私の所感であるが、

昨年の寄席を経て「ガヤ有のネタが面白い」

という要素を売りにしてしまったため

(言うなれば"ネタバレ"を

食らってしまった状態だったため)、

"メタ"的な娯楽に必要なライブ感が

欠けてしまったことによるものだったと思う。

初見で十分に楽しめなかったのは、

この寄席を"メタ"的なお笑いと捉えてしまった

私の責任である。



さて、前回語ったように

M-1ファイナリストである彼らの露出が

やはり増え始めたところではあるが、

私はしばらくランジャタイのことを考えずに

過ごそうと思う。

もう彼らの顔を見るだけで

安心感のようなものを

覚えるようになってしまった。

これではネタをフラットに楽しめない。

ガマンランジャタイである。

そう思っていたところに

先月再販の文字を見て流れるように購入した

彼らのライブDVDが届いてしまった。

もう、逃れることはできない。










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