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ふるさとへ

東京へ通勤可な町に生まれた自分には故郷というモノがない。
更には、家族の事情で実家という物も家はあるが、母も住んでいないし、立ち寄れない場所になってしまっている。

そんな自分だか、なぜか推しの故郷が自分のふるさとの様な感覚になっているのだ。自分の唯一無二の推しは、その東京都下の長閑な街で、金銭的には豊かとは言えなそうだが、たくさん素質と、彼に合った溢れんばかりの愛情を浴びるように受け育ったのだと自分は信じている。

自分の町から1時間強で訪ねる事の出来るその街は、
光の加減や生産緑地が思いの他沢山あり、また高い建物があまりない。
そして、何よりも都市計画が上手く出来ているようで広々として、車道、歩道、自転車道ときちんと整っている、その為か、とても歩きやすい。

路地に入ると、生け垣やブロックや、フェンスの塀に囲まれた1軒屋が多い、地域の広場が数多く整備と管理されていて、余裕がある感じがする。

推しの通っていたとされる学校から家に帰る道筋を歩いてみれば、広い敷地にたくさんの木に囲まれた1軒の家がある。前回訪れた時もビオラが正面横の門あたりに沢山咲いていた。

ここは、そう自分が小さかった頃の町に似たところがある。不思議な事に東京にそれが残っているのだ。自分が歩いた本当の地元の町はかなり変わってしまい、どこもかしこもコンクリートに覆われて、駅に続く道では一体何をしているのか、10年近く道路工事が間断なく行われている。

気持ちのいい豪農の裏の道、そこには白梅や、花ダイコンの咲き乱れた。その細道はとっくの昔に消えて、農家の母屋も今は壁をむき出しに曝している。

そんなこんなで、推しのふるさとが、どうゆう分けか自分の町の様に感じられて、その街を時々歩きにゆく事がある。小さかった彼が見た風景はこんなだったんだろう、そして、そこには小さかった自分の心もそこに重なる様で、幸せな推しの子ども時代に自分の子ども時代も重ねて、ちょっと不思議な幸福感を味わえる街が、ふるさとの様に思えている。