生きて、死ぬだけ

 GWの最終日はEnding noteを書いていた。終活は親には勧めていたのだが、自分が40歳を過ぎて、何が起こってもおかしくはないとは薄々思っていたので。急な脳梗塞を患った同年代の友人もいる。実際にEnding noteを書いてみるとなかなか興味深い。マイナンバー/口座情報といった資産(そしてそれを誰に渡すか)に関する事、葬式の喪主は誰にお願いするか、火葬にするのか、墓はどうするかといった事に始まり、どう介護されたいのか、自分の臓器は他人に提供するのか、延命治療・・・etc (個人的には臓器提供については、はいあげますと素直にレ点をチェックできない自分に気づけたのは、新しい気づきだった)。

 生の終わりを具体的に意識する事で、今現在生きていることに対する有難み・生に対する本気度が自分の中で沸き起こる。思えば、20代の時に遺書を書いて母親に書いて渡したことがあった。人の本質的な点は、そう変わらない。そう、思えば、自分らしい行動だった。

 排除すること、脱ぎ捨てていくことが肝要だなと改めて思う。捨てる事で大切なモノが顕わになっていく。人間関係も仕事も周囲の雑音も、実際に捨てる行動を取ったことで気づけた事があった。心の持ちようも変わった。彫刻を彫って像を完成させるように、削っていくことで、自分の本質・輪郭が段々と明らかになっていく。

  4歳の息子を観察する。驚くほど自分の言動を真似している、そして真似する能力が高いことに気づく。生き物としての生存本能なのだろう。以前、カバの母親がいかに子供に呼吸法を教えるかについて書籍を紹介したことを思い出した。話が(子育てへと)少々ズレるが、もちろん子供にかける言葉の影響力は非常に大きい。ふと子供に投げかけた一言が、一生彼/彼女の心に残り、トラウマとなってしまうこともある。でも、ことば以上に、オヤジの背中・生き様的なところを子供は感じ取っているのだと思う。このnoteでも、子育てに関する投稿は50本以上書いてきたけれど、結局親が(ことばだけでなく)どのように行動してきたかは、とても大きい。自らが挑む姿を子供に見せていれば、子供もそれに影響されるだろう。自分が実現できなかったことを子供に期待するような生き方はしたくないし、いつまでも挑戦者かつ実践者(CriticではなくDoer)でいようと思っている。

 幸い、自分には、まだやりたいと思っていることがいくつかある。20歳の頃から、GMO熊谷正寿の人生手帳を参考にしてきた(彼自身が夢を成し遂げた事というより、「教養知識・健康・精神」という基礎レベル、「家庭プライベート・仕事人生」という実現レベル、そして上位の結果レベルという3つのピラミッド構造が優れていると2023年の今も尚思っている)。それをもう一度連休中に見直してみた。

 成功しようと、失敗しようと、結局のところ、生きて死んで灰になるだけ。突然この世からいなくなってしまった親類もいる。忘却の生き物である人間は、なぜか明日も自分は今日と同じように生が与えられていると思っている。死ぬこと以外はかすり傷等という恥ずかしい言葉をここで吐くつもりは毛頭なく、淡々とフットワーク軽く、挑む人生を送り、それが出来なくなり、自分の身の回りの世話ができなくなったら、その生を閉じたいなというこれまた20歳の頃に思っていた同じ結論に、今回も辿り着いた。「恬淡」と手帳に書いて閉じた。

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