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黒駒不動尊その3と飯村家

不動尊のお堂

お不動様。64名の登記名義人

明治45年(1912年)という年は、7月20日に明治天皇が崩御され、後に大正元年となります。
遡ること八年。日露戦争が起きてます。
乃木将軍と東郷元帥の二人が軍神とされ。後に、乃木坂で有名な青山墓地近くに乃木神社(地方にも点在している)明治神宮入口付近に東郷神社が残ります。明治44年、45年の動向を調べてみましたが、仔細は、わかりません。
地租改正やら、登記制度創設などがあったんでしょうか?
明治45年6月20日付けで、噂通り、64名の連名で登記されてます。
(こちらは黒駒不動尊FACEBOOKに掲載)
飯村家13代の飯村丈三郎氏も一員として記載されている。

飯村家も本籍は黒駒河岸だったんですね。二桁台は鬼怒川近くです。


本来は、氏の先祖が寄贈した土地ですね。
ご存じない方のために、丈三郎氏は、県議会議長や衆議院議員を務めており、現在の私立茨城中学・高校および茨城新聞社の実質的な創業者とされている。また、茨城町出身の川崎財閥創始者とも懇意にしており、多くの企業設立にも参画し、ある大手損保の社長も歴任されている。
15代は婿さんだったようだが、丈三郎氏の孫にあたる上品なお婆さんが健在であり、随分と薫陶を受けた記憶がある。
小僧だったから聞き漏らしたこと、スルーしてしまったことが多々あったはず。残念でなりません。
ちなみに、敷地面積は、5,576㎡と広大です。
年に一度、村人が一斉清掃をおこなうのが、お不動様と黒駒神社の二箇所です。

飯村家と不動尊

小学校低学年時代だったかと思う。昭和30年代前半から35年あたりだったかと記憶している。
山羊を数頭飼育していた。
当然、乳が出る。ヤギ汁は沖縄ですが、山羊の乳は、強烈でしたね。
呑みすぎると目やにが出たことを覚えている。
たぶん、父親と太一さん(16代)が懇意にしており、現金収入の一助にと氣づかいいただいたんだろうね?
毎朝、しぼりたてを沸かして五合瓶で配達するのが日課だった。
子ども心に普通のお宅では無いことは認識していたから毎回緊張しながら200mほどの路を通った。数年続いたやに記憶している。
お不動様と生命を教えられる
小学6年生か中学1年生だと思う。
父親が猟銃を購入したことがある。空氣銃と呼ばれる太鼓型の鉛玉を使う銃も併せて数丁持っていた。当然、警察への届けは出してある。
恐れを知らぬガキだったからね。不動様には、キジバトを含め、野鳥がたくさん居た。
鳩を空氣銃で落とすには、頭を狙うしかなかったが、何羽も堕とし、焼いて食べた。ある日、カケスが居た。
後に知ったことだが、カケスはオシドリと同様に、終生番で生きる野鳥。
これの片割れをおとした。
ところが残った一羽が上空から離れない。チャンスと思い、もう一羽も堕とそうと思ったが、地上で一羽がもがいていた。
あれ?夫婦か?
当主の太一さんとは山羊乳の配達もあり、顔見知り。
野鳥好きであることも認識してたので、抱えて駆け込んだら、その時には死んでいた。
諭されることもなく、その折に聞かされた。
カケスは終生番で生きるんだよ~
野鳥も、牛さんや豚さんや人間と同様にイノチがあるんだよな~とさりげなく、オイラのやってることを諫めてくれた。
そんなお宅の先祖さまが土地を寄進し、(たぶん)建物と過半の資金は提供したものであろう。
不動尊の謂れにある、鬼怒川云々も、同様に物語として、数名と語らい残したものであろうかと。

カケス

農地改革と日本の力の根源を奪った愚策(米国にとっては最善)

昭和21年10月に施行されている。
農地解放は表向きの政策で、実態は、当時のGHQが見切ってたんだろうね?日本の力の根源は、地主層にあったことをね。
3万とも5万とも言われた地主層。
戦後教育の中では地主層の悪辣さが強調されていた。
戦前の日本は全体主義であり、民主主義化の策の一つともされている。
大ウソつきです!
地主の搾取で小作人は酷い目にあわされた!ともね。
江戸時代。地域により違いはあったようだが、四公六民や五公五民が幕藩体制を支えていた。
維新後は、幕藩が地主層に代わっている。近隣の地主は概ね四公六民だったようだ。(高校時代に近隣の大地主5か所を訪ね歩いている。その結果)
地主層は得た資金で、現在、国や自治体が行っている基盤整備事業や新田開発を行っている。傍らで、村内の優秀な子を書生にし、大学まで通わせ、後に村長にしていた例が散見された。
多いお宅では書生が10名を越していたともいう。
余談ですが、令和6年の勤め人の控除額は50%近くになっているという。
実質的には、他の諸税を併せると60%を超えているとも伝わる。
消費税、揮発油税、自動車税・・・などを含んだものであろう。
報 恩
好きな言葉の一つです。
恩に報いる。
死語にされた言葉の一つですね。
ご存じの方が居られたら、Oリングテストをされてください。
消された(書き換えられた)文字が多々あります。
學⇒学。氣⇒気。
アタシャ、學と氣は使い続けています。
どちらも、Oリングテストをすれば意味が判明します。
漢字は、漢で生まれたから漢字ですね。
今でも、大陸の皆さんは、盗人呼ばわりをされますが、それを言霊にまで昇華させたのは、日本国の先人です。
漢字は母国では簡体文字に変わりました。
教育の現場での要請と以前北京を訪ねた折に聞かされた。

またまた脇道へ逸れた。
村の経営を15代の長きにわたり、農地改革なる占領政策に翻弄されるまで続けていただき、立派なお不動様の敷地まで提供していただいている。
想像でしかないが、お堂の建設資金も過半は拠出されたものと思う。

常套句の、出来る範囲でなんぞと考えてない。
それこそ、怨嗟、誹りの声が渦巻いても良いから一身に受けて、恩に報いる一年にしたいと念じている。
ちなみに、ご家族からルーツをお聞きしたことは無いが、先日、茂木町内に益子一族(紀貫之の子孫と伝わる)の一員とされる飯村城址を訪ねた。
残念なことに、当主の方とはお会いできず仕舞いだったが、城跡の一角に住宅が残っている。居られた妙齢の女性と立ち話ししたが城主一族が帰農したと仰せ。栃木県益子町や真岡市ともつながりが深いと聞いていたので、ひょとしたら、一族なのかも知れない、と。
この事も先代の太一氏やご母堂に聴いておくべきだったな~と。

樹齢400年と伝わるシンボルの欅
飯村家墓所(GoogleMAPに掲載されてるから無問題だろうね)

小生にとっての飯村家は、丈三郎ではなく、太一氏でした。
古希過ぎまで活かしてもらって、彼のような人格者には遭遇したことが無い。
本来、彼のような識見を持つ人物が政治の世界の頂点に立つべきと感じていたが、世界を熟知していたんでしょうね?
目立たずに公に生きた方でした。
平成8年(1996年)3月19日が葬儀でした。
前夜から降雪があり、父親が早朝からタイヤローダーで雪かきしていたのを覚えています。
仲良しでしたから、彼なりの門送りだったんだろうね。
飯村家16代。71歳の生涯でした。
彼や政治と経済の中枢で活動された丈三郎翁は、現在の日本を天界からどんな想いで眺めているんでしょうね?
現代に生きる日本人の一人として忸怩たるものがあります。

残余の人生。地域と日本国のために尽くして冥土へ旅たちたい。

土曜の早朝に。

日本生まれ、日本人


文責はむろん、小生にあります。


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