正月に筑波山西麓の歴史を考えてみた!
元旦の初詣!
鬼怒川の土手に登り、初日の出は例年の恒例行事。
今年は帰路に、駒城址で初詣、次に黒駒不動尊に初詣。
帰宅し、雑煮を食べてから大宝八幡宮に。
今年は暖かかった所為か行列でしたね~
宗任神社~國王神社~延命院~一言主神社~大生郷天満宮を廻る!
南コースは翌②日にしようと考えてたが、帰路に、おだやかな天候を考えて、予定していた神社、仏閣を回ってしまうことにした。
八幡宮では、好物の煮イカ(赤みがかったあれね)を食べてるし、家族もそれぞれなにかを食べてたので・・・。
宗任神社
三年前に、安倍昭恵さんを呼び込もうと、何度か神田にある店を訪ねた。
むろん、現職総理夫人ですから昭恵さんへのアポはせず、都度簡単な文章を店のスタッフに精算時に置いてきた。
宮司さんに後に聞いたことだが、昭恵さんの名代と名乗る女性が昨年春?にたずねてくれたようだ。
一度だけ、昭恵さんから直接スマホ発のメールをいただいていた。
存在は認識しているので、必ず訪ねたいと考えてます!と。
帰郷し、なんらかの役に立てたらと考えての行動でしたが・・・。
残念なことに、昨年7月8日に暗殺された。
むろん、山上某の手によるものではあるまい!
後の県立医大教授と奈良県警の解剖所見の大いなる食い違いがそのことを明らかにしている。奈良県警に至っては、解剖所見も含め、記者会見すらおこなっていない。
日本政府や検察、警察の手の及ばない大きな力が安倍さんを暗殺した!と信じて疑わない。どこの誰かはわからないし、あと数十年すれば、米国発で真相が明らかになるんだろうね?
前九年後三年の役と安倍一族
とてもややこしいが整理しておくと、安倍宗任は奥州の覇者安倍一族の次男と伝わる。ご母堂は京都の公家の娘とも・・・。
ゆえに、遠島となり、助命されている。
後に登場する國王神社に祀られている平将門公。
彼を滅ぼしたのが下野の藤原秀郷。その子孫の一人(藤原経清)が安倍一族の女性と設けた子が奥州藤原氏の初代。これがややこしいが安倍氏を滅ぼした出羽国の覇者に嫁している。その連れ子が初代清衡公。
と云うことは、奥州藤原氏は、安倍一族と将門公を滅ぼした藤原秀郷公の血を受け継いでいることになる。
前九年の役で安倍一族が滅んだのが、1062年。
それから遡ること、120年。平将門公が戦死している。
國王神社と延命院
國王神社の創建は、奥州に逃れた将門公の三女が死去の地・北山に建立したとされている。
質素な佇まいの茅葺き社。
創建1000年以上ゆえ、当時のままではあるまいが、建立の地は間違いないようだ。余談だが、元の下館城主水谷氏は秀郷公に従い、将門追討に参加していたようだ。
将門公の首は京都に運ばれ、晒されたと伝わる。
これが歴史に残る最初の獄門だそうな。
仔細はネットや書物で検索していただくことにして、遺された胴体は、縁者武人の手によって、北山からほど近い神田山・延命院に葬られたと。
当時植えられたものか否かは不明だが、榧の大木の下に眠っているとされている。
一言主神社
おそらく、県西地区では参拝客が最大では無かろうか?
他を知ってるわけでは無いし、参拝者数を競うこともあるまいが・・・。
ここは、ロケーションが良いよね。
延命院からほど近いところにある。
講の伝統があるのらしいが・・・・。
例年、渋滞する車両の中から、駐車場。それから参道を登り、往来の時間は1~2時間は要する。
大生郷天満宮
なにゆえ、当地に菅原道真公が祀られているのか皆目不明だったが、帰宅後に調べてみて理解した。
それを観て、後の筑波山西麓の一人旅をしてみた。
後に仔細を書きますが、ふっと思ったのは、なにゆえ、子どもの頃の12月24日に天神講が伝わってたのか? 旧水海道はいわば隣町。
あやかった伝統行事でしたね。60年以上経過して由来を知った次第(^^)
香取神社
千葉県香取市にあるのが香取神社の本宮である香取神宮。
どうも、鹿島神宮とは現在は利根川を隔ててますが、利根川東遷の以前は、内湾だったのかも知れませんね。
延喜式では、別格の伊勢神宮と並んで、日本三大神宮と称されるようです。
その400社あるとされる香取神社のひとつ。
鎌庭香取神社に最後の詣でる機会があった。
ここも将門公由来の地とされてる様子。元は本拠地であったとされています。石下町豊田由来で、豊田の小次郎と呼ばれた時期もあったようですし、旧鬼怒川を挟んだ対岸でしたからね。
ここから終焉の地である岩井は隣村と呼んでも差し支えない距離です。
個人的に、香取・鹿島の両神宮は、大和朝廷成立以前から存在した東国の雄であったのかと・・・。
後に、大和朝廷が取り込むことで三大神宮としたのでは無かろうか?
平将門の乱⇒前九年の役⇒南北朝
菅原道真公と平将門公
道真公と云えば太宰府天満宮ですが、こちらの大生郷天満宮も由緒正しいことを初めて知りました。
歴史好きがスルーしてはいけませんね^^;
悲憤の最後だったのは両者に共通してますね。
前者は右大臣まで登りつめた人物ですが、公家の間では、成り上がりとされてたんでしょうか?
讒言により職を追われるのは現代も同様ですね。
将門公は桓武天皇の子孫の一人。皇族の末裔ですね。
平安京の平をとって、平氏を名乗った説が有力なようですね。
ちなみに、将門を倒した平国香の倅が貞盛。その子孫の一人が平清盛です。
また、関東に残った平氏は後に、千葉氏、三浦氏を名乗り、頼朝与党となってます。秀吉に滅ぼされた北条氏も平氏ですね。
脇道に逸れました。
歴史は多層構造ですからね・・。
だから面白いんですが。
道真公は子どもが二十数名居たようです。
その三男?が常陸介として赴任した地が筑波山北西麓の真壁町羽鳥。
道真公の遺骨を最初に埋葬したのが、現在は、歌姫明神と呼称されている。
当地は桜川を挟んで、坂東平氏の長である平国香と踵を接していた。
当然、国香の勢力圏であり、国香は武士階級。
力の差は歴然であったろう・・・。
推測に過ぎないが、国香との相性が悪く、後に大生郷に移ったのは、将門の導きによるものだったものであろう。
二大怨霊の遭遇
将門公は京都に獄門の後、諸説あるが、大手町まで翔んで落ちたと云う。
公家衆は、事あるごとに将門の怨霊の仕業と怯えたようだ。
将門公(940年没)よりも早く没した道真公(903年)は、事あるごとに道真の怨霊の祟りと怯えた一群があったようだ。
そこへ将門公。京都の公家衆はおそれ慄いたんであろうね。
将門公は道真公のちからを利用しようとして大生郷に天満宮建立の支援をしたものであろう・・。
新皇を称したのは道真公の霊の神託が降ったとされているから、三男氏が大生郷天満宮を創建したのは929年とあるから、辻褄は合っている。
常陸の大地で後の二大怨霊が遭遇したことになる。
后神社
雨引山(雨引観音・楽法寺(らくほうじ)=創建は伝587年)の麓。旧大和村大国玉地区の道路際にあった。
将門公の后の一人だった様子。新皇を称した後に亡くなったため、生まれ故郷の皆さんが祀ったようだ。
この立て札でしばし考え込んだ。
下妻市大串の地名が現れる。大串は大宝八幡宮の南に隣接する大地。
そこに、源護一家が蟠踞していた?
と云うことは旧下妻市は将門公と国香の勢力が拮抗していたのかも知れないね。
国香と通じていた源護。当然、乱の前哨戦(承平五年=935年)で一族は国香と共に滅ぼされる。
后神社と歌姫明神を尋ねることになった二日の一人小さな旅。
最後に旧明野町石田の平国香の本拠地を訪ねた。
お寺さんが残されている。
強者どもが闊歩した1070年前を旅させていただいた。
壮大な歴史の旅をさせていただいた。
感謝ですね(^^)
追記
坂東市内や周辺の家で成田山には参拝しない!桔梗も植えない!との伝統をお持ちの家庭があるようですが、利根川を挟んだ我孫子氏にも残されてるようです。考えてみれば、利根川東遷前は地続きですもんね・・・。
勢力圏だったんですね。
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