【往復書簡】5通目(ジャッキーさん)

「トランプの件」引用元記事の日付が奇しくも2月5日であり、これは是が非でも今日中に返さねばならぬと謎の使命感に駆られています。あえてルールを設ける愚かさをお笑いかもしれませんが、この縛りによって苦しめられるのは己だけということで強行採決しましたので、目をつぶって以降お読みいただけますと幸いです。3年前のジャッキーさんに思いを馳せながら、本題へ入らせていただきます。

ルールのないところから、あえてルールのあるところへ飛び込んでいくことの魅力が、僕にはあんまりわかんないのだ。
根本的にルールが嫌いなんだと思う。
ルールに縛られている間は、ルールを守らなければならない。

僕もルール(遊び方を制限されること)はあまり好きではありません。が、その一方「ルールを知る過程」は意外と嫌いじゃないのです。むしろ好きだったりする。遊んだことのないボードゲーム等はとりあえずやってみたい派なのですが、数回繰り返して、いざ遊び方を知ってしまうと途端に飽きて遊ばなくなってしまいます。ゲームも安いものではないので、コスパは最悪です。そうは言ってもなんだかんだルールを把握した向こう側にある勝ち負けにあんまり興味がないんだと思います。

度々事例に挙げられているトランプも、ババ抜きや大富豪などのすでに知っている遊びは僕もあまり参加したくないし、誘われても何かと理由をつけて断ったり、参加しても数回で下手な言い訳をして抜けたりしています。それならお話をしましょうよと思うのは、全くもって同感です。

このようなゲームに限らず、この世の全ての物事には見えていようがなかろうが何かしらのルールが設けられています。そして生きている限りその連続からは逃れられないし、出くわす都度それを把握しなければならない。そしてその中にはジャッキーさんの言われるような〈支配的な価値観〉に満ち満ちているルールも当然含まれます。その方が多いぐらい。

そんな中でルールを知らないままでいるより知っている方が何事も有利に進められるし、例えばルールを守るかあえて守らないかの選択も場合によってはできるかもしれません。そうは言っても世の中には〈強制的に守らなければならない諸々〉があるのもまた現実。毎度毎度ご都合よく事が進むわけもなく、世知辛いですが目は背けられない。だから少なくともそこを泳いでいくために「新しいルールをめんどくさがらず学ぶ好奇心と、それを瞬間的に把握する能力」は持っていたほうが良いし、それも学びの原動力のひとつではないかなあと考えていました。

そしてそれを学ぶ手段の一つとしてゲームは即効性があって、あと何と言ってもわかりやすい。なんせ説明書に答えが乗っているので。ただ同時に、一回わかってしまったらもうそれ以上の学びはあまりない(勝つための学びはあるやもしれませんが、今はそこをあまり重要視していないので割愛)という脆さもあります。

ルールの話ばかりで恐縮ですが、ここからそのまま「芸術」と「エンタメ」の違いへと話を展開していきます。まず、エンタメに分類されるものにはどれも明確なルールがあってそれによる楽しみ方があらかじめほとんど決まっている。もちろん決まっているからこその良さも当然あって、その中ではルール(作法)を知るめんどくささをすっ飛ばして、手っ取り早く目的を得ることができます。しかもあすかさんが言われているように「確実に手にはいるもの」である。余裕がない人。少し言葉を足すと(イチから新しいルールを知る)余裕のない人にとって、それはありがたいのかもしれません。ディズニーも、映画も。ボードゲームもこの括りだとこちら側に含まれます。

一方で芸術鑑賞におけるルールは曖昧です。あるにはあるけど全然明確じゃなくて、その分自由度が高い。もしかしたら会話のそれにすごくよく似ているのかもしれません。

ひつじがには絵を描かれている方もよく来られるので、たまに芸術に関するお話をすることがありますが、誰のお話を聞いていても「芸術に正解はない」という点で共通しているように思えます。人によって向き合い方も捉え方も異なるし、それぞれの見解はあるけど、どこまで考えても一向に明確な正解にはたどり着きそうにない。そうなると「なるべく自分が正しいと思う方」を自分で選んで動いていくしかない。ちょっと大げさに言い過ぎかもしれませんが、絵描きさんたちと話す度にこういう気持ちになります。

ジャッキーさんが言及されているとおり、芸術は「余裕」がなければ楽しむことはできないと思います。その芸術から何かを吸収するには何時間、何十時間、極端な話死ぬまでの間ずっと鑑賞し続けることになるかもしれない。それを得られる時間には当然個人差があって、例えば映画みたいに「誰でも2時間で◯◯な気持ちになれる」ものではありません。いつ受け取れるかわからないものを待ち、見続ける余裕が必要なのです。

ものすごく面倒なことのように書いたからそう見えるのかもしれませんが、事実これはものすごく面倒で、従って多くの人は好き好んでやろうとしません。皆がそれをやろうとしなければ、おっしゃられているような「芸術がエンタメに寄っていく」現象が起こるのも当然の流れだと思います。自由さを面白がる人、「あなた次第」を楽しめる人が減ってきているから、こうなるのも止む無しの流れだと思いつつ、せっかく自由に楽しめたものに後付けでルールが加えられてがんじがらめになり、不自由度が増していくのはなんとももったいないですね。

社会の全部がそうなってしまわないためにも、構成している人間が「あなた次第」を楽しめるような場所はやっぱりどこかにあったほうがいい。また、そこにいる「あなた」側も、誰かから提示された細かなルールや遊び方に縛られずに高い自由度のままでいられたら、場側の都合に一方的に身を委ねる(求心的)状態から抜けられるし、そういう遠心的な「あなた」が増えていくのは素敵だなあと思いました。

我々が目指す「円熟型」の場が、仮に「あなた次第」を自由に楽しめる空間のことを言っているとしたら、下手すれば丸投げになりがちな「あなた次第」をどうすれば楽しんでもらえるのでしょうか。またそのために我々場側の人間が日頃できることは何があるのでしょうか。

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