【往復書簡】(仙仁透様)

拝復 仙さんへ

書簡の口火を切って頂きありがとうございます。今は日頃の連絡でいちいち時候の挨拶をすることもないので、こういう前置きが逆に新鮮ですが、そういった無駄も含めて、緩やかに書簡で毒にも薬にもならない話をしながら互いに思考の沼へ潜っていけたらと思っています。

「虫の音」と聞いて、パッと思い浮かんだのは田舎の祖父母の家から見る風景でした。僕の地元は長崎県の島原というところですが、そこよりもさらに田舎、コンビニもない小さな町にある、田畑の景色です。映像の方が文字情報よりも残りやすいのもあるのでしょうが、できることなら僕もなんらかの文学作品を引用してみたかったです。が、もう頭の中には田園しか出てこないのでこのまま続けますね。

田舎の景色を思い浮かべながら、一方でそれが「いつ(何歳の時に)どんな状況でどんな虫の声を聞いた」のかという記憶はものすごく曖昧だったのが我ながら不思議で、しばらくそのことについて考えていました。確かに脳裏に浮かんだけれど、もしかしたら「虫の音=田舎」で連想しただけで、本当は虫の声なんて聞いていないのかもしれない。虫だらけだったので聞いてないなんてことはないんでしょうが、とにかくそのぐらいに漠然とした記憶が引っ張り出されます。

そうやって引っ張り出された記憶の小塊。それを言語化して誰かに説明するためには足りない部分を補完する必要性があります。この書簡を書く上でもだいぶんに補完(美化)してしまってます。「聞いたかもしれない」虫の声を「聞いた」の方向に持っていく。ここに至るまで頭の中で様々なこじつけが行われました。

それが映像などで記録されていない以上、本当なのかを証明するのは悪魔のそれと同じぐらいに難しいですし、とはいえそのぐらい曖昧だからこそ良い部分もあります。過去は変えられないと言いますが、あくまでそれは事実に限った話で、それに紐付く記憶(思い出)は解釈次第で変えられるし、解釈をするためには想像力が欠かせない。そしてその想像力を養うために、「積み重ね」の価値を意識することが役立ってくるのではと思っています。

書きながら以前仙さんと話した「知識の網」のことを思い出しました。新しいことを知る(経験する)ことを頭の中にある網に糸を一本通して目を細かくする行為に当てはめる考え方、気に入っててよく使っています。ここでいう網の目を細かくしていくことが「積み重ね」で、仙さんのいう価値は「目の細かさ」によって判断ができそうです。与えられたキーワード(今回なら「虫の音」)に対して、目が粗ければ取りこぼしてしまう虫(ネタ)をどれだけたくさん捕まえられるか。会話は捕まえた虫の中から相手が喜びそうなものを見せ合う行為なのかもしれないですね。

話が変わりますが、最近のトイレには入ると小鳥の鳴き声や小川のせせらぎが流れるものがあると聞きました。そこまでして田舎感を手に入れたいのかと驚きましたが、日頃気軽に田舎に行けない方々にとっては貴重な癒しなのでしょう。僕が記憶の小塊を使ってそうしたように、音をきっかけに脳内に自然を想起させることができれば、いつでもどこでも(トイレの中でも)自然を体感できるのかもしれないし、そのうちトイレに入る前にVRゴーグルをつけて自然の中で用を足す……みたいな時代になるかもしれません。もしそうなったら世も末です。

小鳥のさえずりや小川のせせらぎなどの都合のいい情報だけが切り取られて、例えばそこに羽虫の飛ぶ音などの癒しと対極にある音声は用いられることはきっとないでしょう。それで出来上がるのは美化された無菌室のような自然ですが、そうやってできた自然は果たして自然と呼べるのでしょうか?

仙さんは、《自然》という言葉で何を思い浮かべますか?

2019.9.26
増税前駆け込み消費はしないシモダヨウヘイ

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