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下邑家が衰退した3つの理由


はじめに

このテーマを扱うかどうか、とっても悩みました。あらゆるタブーに踏み込むことになるからです。

ですがこれも歴史の一つですし、古建築所有者の実状を知っていただくことで、日本文化存続への向き合い方が変わったり、人や文化が壊れていく様子を教訓として活かしていただけるのではと思い、記事を書くことを決意しました。

当時はどこの家でも似たような問題が起こっていたのではと思います。

なお後半部分については、私としてもまだ躊躇いがある内容のため、有料とさせていただいております。また何度か加筆修正を繰り返しています。
ご理解のほど宜しくお願い致します。

地主は現在も資産家なのか

明治時代の土地の権利書

家や蔵がボロボロの状態を見て「土地売ればなんとかなるんでしょ」というお言葉をいただくことがあります。

これは正解でもあるし、間違えでもあります。家によって全く状況が異なるのです。
所有している土地が市街化調整区域の場合は土地運用が難しいです。ですが過去の栄光である立派な家や蔵だけが残っている状況。こういった家は修繕に数千万とかかる場合があります。サラリーマン収入だけでは維持できないので、あと10年ほどで国内の古民家たちは一気に空き家化したり、解体が進むでしょう。

家主個人の幸福を追求するならば、家を売ってしまえば良いですが、それをしないのは薄皮一枚のプライドで繋がっているからだと感じます。

門や蔵がある地主が資産家とは必ずしも言い切れません。

本筋とずれますが、日本文化の継承にあたる活動というのは、ある意味では富裕層の道楽かもしれないと思うこともあります。こういうところに着眼する人はある程度の余裕がある場合が多いと経験的に感じるからです。
古建築維持継承に苦しむ様子を公開して同情を買う前に、まずは貧困層を救済した上で文化活動をするのが順番としては正しいような気がします。
自問自答を繰り返していますが、まだ答えが出ておりません。本記事ではその議論を放棄して、一方的な主観で語ることをお許しください。

下邑家が衰退した3つの理由

下邑家が衰退した理由は「時代と欲望にのまれた」に尽きます。その物語をご覧ください。

❶農地解体

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官
ダグラス・マッカーサー

農地解体とは、日本国が米国に戦争で負けた翌年1946年から1950年にかけてGHQが行った改革です。貧富の差を是正するために政府が地主から小作地を安値で買いとり、小作人に売りわたしました。

農地解体をした結果、貧富の差が埋められたかについてはこの記事で触れませんが、下邑家の主観で見た場合、単純に所有していた土地は減りました。それでも全部が全部、土地が政府に渡ったわけではなく、下邑家自身が農作業をしていたところの一部田んぼや山林は手元に残りました。

3代目夫妻

かつての小作人から辛い言葉を浴びせられることもあったようで、それに対して沸々と怒る妻に3代目は「まぁ、これで皆んなが幸せになれたんだから良いじゃないか」と嗜めたといいます。

小作取立帳。表紙を紙で隠していた跡があり、負い目を感じていたことがわかる。
戦後は地主であったことを隠し、2015年までは目立たぬように暮らしてきたが現在は悠長なことを言っていられない段階にある。
GHQが下邑家の米倉につけたプレート。政府管理下の主食食糧庫と書いてある。


❷研究学園都市開発

雑誌『毎日グラフ』に見開きで登場した当家の4代目

筑波研究学園都市は、国の試験研究機関等を計画的に移転することにより東京の過密緩和を図るとともに、高水準の研究と教育を行うための拠点を形成することを目的にした国家プロジェクトでした。

開発に向けて茨城県から届いた冊子

この開発で下邑家が所有していた山林を高額で売却することに成功しました。賢い人はそのお金で家を修繕したり、投資をしたりしました。
ですが、当時の下邑家の4代目当主は得たお金を道楽に費やしてしまったのです。それ以前の4代目は家を護ることに積極的だったはずでした。
家を存続させるために、息子の結婚相手を探し、実家に行き、プライドを捨て、頭を下げ、お願いしに行っていた彼はどうなってしまったのか。

そう。大抵の人は一度に大金を手にすると狂ってしまうのです。

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