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フランス伝習隊のお仕事

幕末最強の兵士団?

伝習隊発足す

新撰組八犬伝で、主人公、奥村仁右衛門の所属する「フランス伝習隊」ですが、どう組織され、どのように運用されていったのでしょうか?

フランス伝習隊の発足は、1867年(慶応三年)のことでした。

もちろん、指導をあおいだのはフランスで、のちに陸軍大臣となったシャノワーヌ、ブリュネなどを中心に、十五人の顧問団が来日しました。

兵の内容ですが、肝心の旗本たちは鉄砲担ぎを嫌がり、集まってのは、やくざや博徒などの裏稼業か、火消しなど血の気の多い連中ばかり。

号令はすべてフランス語! 装備は、最新鋭! でした。

シャスポー銃など後装小銃を、二万五千挺配備しています。近代的な歩兵部隊して、奇兵隊に先駆けて結成され、その規模ははるかに大きなものでした。 第三大隊まで編成され、仁右衛門の所属は、第二大隊でした。

伝習隊の実戦

鳥羽伏見の戦いにも、伝習隊の一部が参加していますが、仁右衛門はここにもまぎれこんで、あげくに敗北しています。まあ、幕府側は、諸藩の寄せ集めだったということで……。

江戸開城後は、大鳥圭介に同調した、第一第二大隊が脱走しています(仁右衛門は退役し、近藤の甲陽鎮撫隊に参加)。およそ1100名による脱走でした。このとき、3000名ばかりの幕府歩兵隊が脱走しています。

一方で、1200名あまりが新政府に従い、一部は、奥州函館と、敵方となって戦います。 後は、大鳥圭介を総督、土方歳三を参謀にして、2000名で、宇都宮城の戦いを敢行します。

草風隊、回天隊を吸収し、北陸を転戦。最後の決戦の地、五稜郭に赴きます。このとき、フランス軍を脱走して参加した、フランス顧問団も一緒でした。 1869年(明治二年)旧幕府軍の降伏とともに、伝習隊の戦いも終結しました。

伝習隊と仁右衛門

伝習隊の将校は、軍服を自前で購入していたので、仁右衛門も、自腹を切って買いそろえたことでしょう。ボタンやベルトのバックルには、葵紋。シングルボタンのフロックコートをきて、フランス式の帽子をかぶっていました。

 甲陽鎮撫隊参加後は目立つので、このかっこうはしていません。足下の革靴は着用していた模様。 洋式といえば、新撰組も鳥羽伏見の段階では、洋式化されており、一人一挺、銃を配備されていたようですね。どこまで使いこなせたかは、疑問ですが。

 教本をつかい、散兵戦術の調練を受けた伝習隊は各地で活躍を見せています。

◆シャスポー銃

前述のシャスポー銃は、すべてナンバリングされており、新政府軍に接収されていたことがわかっています。

このシャスポー、同じ名前の制作者なんですが、試作が完成したのが、1866年のことらしく、ほんとに最新鋭の銃だったんですね。

 フランス対プロイセンとの戦いに投入され、ライフルの性能としては圧倒していたのですが、フランス軍は大敗。 シャスポー銃の弾丸は、紙製の薬莢で、湿気の多い日本では、不発も多かったようです。

 1873年、ベトナムで展開していたフランス海兵隊は、弾薬の湿気りのため、シャスポーが使用できず、短剣のみで戦い、火縄銃の前に壊滅するという悲劇も起こりました。

◆ラストサムライのモデル「ジュール・ブリュネ」

軍事顧問団のブリュネは、薩摩藩邸焼き討ちの指揮もとったようですね。 帰国命令に逆らってまで、箱館戦争に参加し(つまり一個人として参加していた)、伝習隊の部下たちとの篤いきずながうかがえます。 ラストサムライのモデルになりました。

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