負け犬しもでさんの奇跡・32

しもでさん、当時のマージャン教室の状況を語る

2002年当時にお世話になった会場、福岡の「雀健ポン」について、少し話しましょう。

当時の雀健ポンのシステムは、営業時間の10時から23時までの間で好きなときに遊びに来てもいい、というもの。
しかも、役を覚えたばかり、という人もいれば、経験が豊富な人もいたり。
競技マージャンの大会に参加するくらいの腕自慢もいました。

マージャンのレベルや、仲良し具合によって、卓組したり、席の移動をお願いしたり。昼間から夕方までは、慌しかったですね~。

年齢層は10代から90代まで幅広いもの。
ちなみに当時は、「マージャン店」としての営業ではなく、「カルチャースクールの施設」という形で営業していました。
つまり、高校生以下も来場OKだったのです。実際、高校生も何人か来ていました。

というわけで、マージャンを教える内容も、レベルに応じて変えないといけなかったわけです。
後ろで見てアドバイスするのは、この頃の経験が生きていますね。
今なら、もっと上手くやれたかもなぁ、なんて思ったりもしますけどね。

しもでさん、当時の仲間について語る

当時の雀健ポンはどんな感じだったかといいますと、昼がほのぼの教室、夜は若者中心の実戦教室、といった感じでした。
ちなみに、当時いた人の中で、今でも交流がある人が結構いるんですよね。

山田田さん。
現在は、RMUのプロとして競技活動を続けていますが、当時はプロ連盟の若手選手。東京のプロリーグにも毎月通っていました。
山田さんは、雀健ポン立ち上げ当初から専属講師として働いていました。
彼が同僚じゃなかったら、講師活動をここまで続けていなかったかも。
ちなみに彼も、雀健ポンを辞めてからは色々やってきましたが、今は新橋にある「雀笑家」で講師活動をしております。

川崎友広さん。
当時はまだ大学生で、長身痩躯でした。
いや、痩躯は言いすぎた(笑)。でも、現在よりも痩せてました。
地方の若者にしては、マージャンがそこそこ上手。このまま、同世代の人たちと腕を磨いてくれれば、とは思いました。
しかし私からは、
「麻将連合の試験、受けたら?」
というような誘いはしなかったです。
やはり、競技選手の世界に身を投じるのは、いろいろと大変なので、覚悟が必要なんですよ。
ましてや九州からだと一層大変。私が身をもって感じていたので。
もっとも本人から「それでも受けたい」と言ってきたら、話は別ですが。
その後、麻将連合の大会に参加したり、選手との交流がたくさんあったおかげで、麻将連合の受験を決意したようで。
現在は麻将連合のツアー選手として活動中。人狼ゲームの世界でも有名になりつつありますね。
色んな所に顔を出して自分を知ってもらった次に欲しいのは、競技マージャンの実績ですね。これは本人が一番感じているのでしょう。
ちなみに今期のツアーランキング戦では、ツアー選手の年間1位を決める「将星決定戦」に進出できそうな位置にいます。
ここまで書いたからには、しっかり進出して欲しいなぁ。ようやく巡ってきたチャンスだもんね。

他にもいろんな仲間がいたなぁ。
ひらのちゃん、タタラッチ、塾長、こがっち、つづりぎくん、あらたくん、かわかみくん、はらださん、はらだくん、トムくん、あらつくん、おのくん、こやなぎくん、いとうくん、ふじぽん、おりつさん…、などなど。
もっと紹介したいくらいですが、長くなるので今回はこの辺で。

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