塞王の楯

石垣積みの職人の物語なのだが、石垣にこんなに多様なギミックがあるとは思わなかった。石垣のライバルである、鉄砲の技術は進化していき、大砲に近い威力で桁違いに早い連写ができる怪物が生まれていた。主人公である穴太衆のお頭・匡介は、平和な世の実現の礎になるため、関ヶ原前夜の大津城での籠城戦に挑む。

物語を盛り上げるのは二項対立と、その矛盾が激突し合うなかで生まれる昇華にある。鉄砲を作るは、砲仙とも言われる稀代の天才、国友衆を率いる彦九郎。鉄砲は純粋な殺傷のための道具であるが、彼らは最強の矛を作れば平和な世ができると信じる。昨今の核武装議論にも通じる信念だ。一方で、石積みを生業とする匡介らは、最強の盾をそこら中に築けば、攻めても無駄だから戦がなくなるとする。矛盾だ。

今村翔吾の『じんかん』においても、狂気につかれた民衆たちが英明な君主を追い落とすシーンが出てくる。これまた一方で、民衆たちの想いがエンパワーされることもある。これもまた矛盾。匡介は一乗谷で信長軍に攻め入られる落城を経験している。落城は、それまでに確かにその土地に在った、良き好き思い出をすべて上書きしてしまう。笑っていた妹の顔が、落城で燃え上がる街の中で泣いていた顔に上塗りされてしまう。戦は、戦争は、人の命だけではなく生き残った人たちの思い出も根こそぎ奪っていく。そんな経験をしている匡介だから、一見して不合理な、反理性的な人々の凶行も、痛いほどに分かる。矛による安全保障は、すなわち恐怖による安全保障だ。

とはいえ、盾の側も無傷ではない。
ある人を守るためぬ盾が、別の人を傷つける決断を迫られることもある。攻撃は最大の防御と言われるとおり。そうして放たれた攻撃は、当然に憎しみの連鎖の種を生む。それは何処かで報いを受けなければならない重石となる。

いやー、今村さんは人間という存在が抱える業を描くのがうまい。それでいて、しんどい場面ばかりでもなく、ほっこりしたり笑ってしまうシーンも多い。遠藤周作が、夏の暑さを描くためには陰の涼しさを強調すべしと言ったそうだけれども、温かい、本当に慈しい生活や日常や笑い声があるからこそ、緊迫した戦を感情移入して見れた。

対照的といえば、匡介が頂く蛍大名・京極高次と、彦九郎が仰ぐ西国無双・立花宗茂も良い感じで矛盾してた。高次は戦の前に領地を捨てて逃げまくる、しかしラッキーな人間関係でもって大名に復帰してくる異例の存在だが、そうやっていくらから逃げるということは…。宗茂も数々の戦で圧倒的な功績を挙げ続けるということは…。リーダーシップといえばカリスマ型や昨今はサーヴァントリーダーシップとか流行ったけれど、どちらが上、というわけでもなく、それぞれに矛盾をしているし、その矛盾を抱えたまま生きる強さが、両大名には共通していた。

歴代の塞王でも見抜けなかったものに、要石がある。どんなに堅固な石垣でも、その要石がなかったら崩壊してしまう。そんな要石がわかったところでどうなん?とか思っていたが、あんな使い方をされるとは、という。それと、匡介の亡くなった妹が夢に出てくるんだけど、親より先に死んだので賽の河原で石を延々と積んでいる。そんな哀しいだけのシーンだと思いきや、あんな力強い決断の背中を押すことになるとは、という。

矛盾を抱えて生きる強さ。今の人間に必要だ。

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