映画『バブル』はコーヒーフロートじゃないか説

えー、ほぼ『バブル』の批判です。お好きな方、またお会いしましょう!僕の立場としては作画派というよりストーリー派です。もうなんか、これだけのクリエイターを集めながら「コーヒーが飲みたい人」「アイス食べたい人」の妥協点としてコーヒーフロートができたんじゃないかとか、東京オリンピック開会式第二幕かとか、まあそんなことを思うわけです。

まずもって、人魚姫という題材。
現代風に何かアレンジが入っていれば、たとえば王子側の事情とかあればまだしも、何もなく、ただ無批判に最初からお互いがお互いのこと好きであって、そんでもってリスクを負うのが女性側だけっていうのがどうなのか。ついでに言えば君たちの出会いのせいで東京爆発して何人も何十人もきっと死んでるわけだけれども、彼ら彼女らへの弔いと償いはないのかという。ただこう、彼女が消えて悲しい!でもそばにいる!という思春期の拡張現実を押し付けられても困りみ。

それと、ディテール。
昨今の倍速視聴の影響により、なるべく言葉で説明しなきゃって圧力。この映画何言ってるか分からない、よって星1、って低評価にびびって量産される説明過多の日本映画たち。無粋だ。人間なめんな。沈黙の中に多様な感情が入ってんだこっちは。

たとえば、東京バトルパルクールに憧れて入ってきたはずの不良が、「俺まだルールよく分かってなくて」とか言って先輩が観客用に説明開始しちゃったりとかね。そもそも東京は危険地帯として封鎖されてて、なんで一回ルール聞けば分かるパルクールのことも知らずにあんたここにいんの?という違和感。

違和感。作品の出来は細部に宿る。リアリティがこの映画にはないのである。言語を介さない少女が突然現れた時の受け入れの速さとか、研究者として一時的に東京にいるはずの女性の部屋に都合よく人魚姫がおいてあったりとか、食糧供給絶えてるはずなのにパルクールの商品が食べ物あったりとか(外の世界から盗んできてる?)、重力異常でコンクリート浮いてるのに人間浮かないとか。

これはそもそもファンタジーなのでリアリティとかどうでも良いのです。うむ。そしたら冒頭の世界中の科学者集まったけど原因不明云々のくだりいらなくない?現代世界に何らかのメッセージを届けたく、バブルの外の世界とも地続きであるならば、細部にこだわって欲しかった。

パルクールのギミックにしても、チーム戦である意味がある戦略がなかった。一人で飛べないところに飛ぶためのジャンプ台て…。人魚姫のお姉ちゃんが分かりやすくバブルを赤にして危険をお知らせしてくれた(王蟲か…)おかげで戦略をねる必要なく個々にバブル避けながら進めば良かったしね。

総じて、すべての物語が外部にひらかれている必要はない。ボーイミーツガールは君と僕の世界だ。たださぁ、その出会いによって何らかの成長が見えるのがボーイミーツガールであって、たとえば『海獣の子ども』は部活で喧嘩してぽつんとしてた女の子が一夏の海洋冒険ロマン的ミーツボーイをすることによって他人、外の世界との折り合いをつけるわけだ。聴覚異常と母との断絶から、彼は何か折り合いついたのだろうか。単純に、無条件に自分を好きでいてくれる異星人の異性ができてうれしい、ようにしか見えなかった。

はい、ホント、ネガですみません。
でも僕は日本映画のこと割と嘆いています。大丈夫かなこれ。

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