同じ景色を見ているからと言って仲間だとは限らない-『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

離れている恋人同士が月とか見てて連帯を確認するシーンがある。あれは、自分たち2人が通じ合っていることを確認するのと同じく、他の人にはこの景色は見えていないんじゃないか、というエゴイスティックな孤独がある。世界に唯一私たちだけだ、という感覚。

フィルは、(たぶん)やりたいことが残っていたけどモンタナ州の牧場をつぐことになった。粗野なナリをしていながら明らかに教養がある。(イェール大で古典を修めている)。リチャード3世の子孫だというカンヴァーバッチの佇まいとマッチしている。

そんなフィルと共同で牧場経営をしているジョージは、大学を落第していて、素朴に教養に憧れている。後に彼は酒屋の後家・ローズと結婚するのだけれども、彼女が弾く拙いピアノも、素敵だ!と褒める。両親と知事夫妻の前でローズのピアノを披露してもらおうとする。いやー、猫踏んじゃったレベルのピアノをガチ教養のある人たちの前でやらされるという…。フィルは悪意によってローズを迫害するけれど、ジョージは善意丸出しで彼女を阻害している。

そんなローズには連れ子がいる。ピーターだ。
物語はピーターの独白から始まる。母を守らなければ。
彼にはクシをガリガリする癖がある。フロイトは、不気味なものは異様な繰り返し、だと言った。『シャイニング』のJACK a dull boyが何度もタイプされるあれとかだ。クシガリガリは繰り返される。

ピーターは一見してなよっとしている。フィルが信奉する西部のカウボーイではない。最初の出会いは、案の定うまくない。ピーターが作った造花を、フィルは鼻で笑い、焼く。静物画の表現で、造花は生きているようだけど死んでいる、ヴァニタス、死の象徴である。この暗示。

二人の出会いは最悪でありながら、フィルはピーターと関係を作り直そうとする。ある秘密を共有することになったからだろう。フィルもかつてはたぶんなよっとしていた。だから今は強烈にマッチョを体現したし、なよっとしたものを嫌悪してきた。ピアノもそうだ。酒屋のしゃべりの喧騒には眉を顰めつつ我慢したが、ピアノには耐えられなかった。もしかしたらかつて自分がやりたかったが断念したものかもしれない。

フィルは丘の影をみる。牧場の荒くれ者たちはそれが何か理解しない。血のつながった弟には絶対に見えない。それを、ピーターは見た。同じ景色を見た仲間だと感じた瞬間である。

という、もうなんか、始めから不穏なシーンでサスペンスでありつつ、特にフィルの心情変化に共感させられる話だった。なんかもう、始めの牛を引き連れていく所から不穏だったよ。

「よくできてるな、本物みたいだ」フィルはピーターの造花を褒める。生きているみたいな、でも死んでいる、偽物。それは造花のことなのか?
「母を守らなければ」というピーターの独白には、「たとえどんなことをしても」という前置きが入っていないか?
依存症だったのは母親の方なのか?

鑑賞後もいろいろ解釈できる話だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?