令和版かぐや姫が問うもの-『葬送のフリーレン』

『葬送のフリーレン』が電子書籍で無料だったので読んだ。2巻。高畑勲監督は『かぐや姫』において、昔話の無感情な登場人物たちの中に感情を入れた。かぐや姫がいかに故郷を愛し、周囲の善意が彼女を故郷から離し、当てつけに行ったことが罪を生み、無感情という罰が下るまでの話。『葬送のフリーレン』は、みんなが知っている冒険のフォーマットに、弔いという感情を入れた物語だ。

さて、フリーレンはエルフである。数千年の寿命がある。よって、10年の冒険をともにし魔王を追討した仲間たちは先に老い、死んでいく。フリーレンは寿命が長いから、感情もゆっくりであるが、何故かたった10年の思い出が気になっている。

『100000年後の安全』という映画は、ノルウェーのオンカロに隠した核物資の危険性を、いかに伝えるかに腐心する人々を追うドキュメンタリーだ。言語は、10万年もの時を経てなお、何が残っているかわからない。だから結局は、髑髏とかの図像が良いんじゃないかとか。

勇者たちの偉業も、数十年経ち、世代が変わると、やがて忘れられ、あるいは魔族との永い争いに疲れ、教訓がなくなっていく。現役の勇者一行であったフリーレンは、勇者がフリーレンに遺したメッセージに想いを寄せたり、教訓を忘れた人々を助けようとしている。

人は何を遺せるのか?

『かぐや姫』は、今を精一杯生きようとして、何も遺せないことに悲劇があった。地上は、月世界の住人が持たない感情によって、どろどろである。当初は、その混沌のなかに放り込まれることが彼女の罰だった。感情は差別する。しがらみを生む。故郷に帰りたいという想いは、月世界からの罰が終わった時、かぐや姫の感情とともに霧散する。

そういう視点からいくと、フリーレンは月世界的な所から、勇者たちが遺したものを辿りなおすことで、感情を手に入れていく話と読めるかもしれない。

ことに日本は、土地所有者と建物の所有者が異なるために、一貫した景観が保てない。現代のレガシーを作るために、64年オリンピックのレガシーをばっちりぶっ壊す。コロッセウムのような建造物を遺そうなんて考えもしない。古い寺院だって、たいていは何回か火事に遭い、細胞が完全に入れ替わったテセウスの船だ。

さておき、勇者は優しい。
それぞれの街で、フリーレンにあるものを遺している。寂しくないように。彼女を信頼するように。

さらには、冒険は敵を倒して終わりではない。アフターケアが必要になる。倒しきれなくて封印しただけの者もいる。再び暴れないかの、確認。けれども、数十年という人の時は、かつての最強を凌駕する。それは個人ではなく、たくさんの人が紡いできた知識という遺産だ。

と、いう感じで、葬送ってのは勇者たちをフリーレンが弔う旅、として読んできたけど、2巻の最後でそういう異名とは、だった。

人は何を遺せるか?

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