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戦争に倦む-「輝ける闇」(開高健)

徹底的に正真正銘のものに向けて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ、目を輝かせ、犬のように死ぬ。


ベトナム戦争の従軍記者として主人公はベトナム戦争に立ち会う。アメリカ兵、ベトナム兵、僧侶、作家、情婦の間を基地とサイゴンを往復しながら交流していく。外国人で小説家の主人公はどこでも歓迎されて、現地の人々が戦争にどう向き合わざるを得ないか、現地ならではの情報を得る。記者としては上々の成果を挙げているのだが、主人公は絶えず倦怠感を覚え、食、酒、性交で紛らわせる。安全な母国があり、自主的に作戦に同行し、その気になればすぐに日本に戻ることのできる主人公と政府の命令で戦い、あるいはそこでしか生きられない人々との間にある埋めようのない溝が倦怠感の原因なのではないかと思った。溝を越えようにもそれは不可能で、革命の士でも反革命の士でもなく、単なる傍観者に過ぎない。倦怠のなかで、どちらかに加担して溝を越えようとするのではなく、むしろ主人公は徹底して傍観者に務めようとする。

アメリカとベトナムの戦争を風刺してマーク・トウェインの小説「アーサー王 宮廷のヤンキー」が登場する。19世紀のアメリカ人ハンクが昏倒から目を覚ますと6世紀のアーサー王の時代だった。かの王に仕え、民主主義を根付かせようと兵士の教育や科学技術を導入する。異世界転生して現代知識を以て無双するかのあらすじだが、最後にはハンクが民衆の生活を向上させたのにもかかわらず裏切られて死ぬ。既にアメリカがベトナムに勝利を収められず、かと言って面子の問題で撤退も選べないときに、戦争の行方は過程はともかく小説に結末が見えている以上倦怠感に疲れるのも仕方ないのだろうか。アメリカが人員と物資、費用を膨大に浪費して得られるものがない虚無さが倦怠で表されているのだろうか。


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