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人材育成の失敗-「参謀本部と陸軍大学校」(黒野耐)


まとめ


・第二次世界大戦の敗戦は参謀本部の敗北であり、人材輩出を担った陸軍大学校の教育に問題があった。
・政治と軍事の統合を明治期は元老が強力な指導力で主導したが、昭和期に入るとそのような指導者を教育で確保することができなかった。


陸軍大学校の設立


1882年に設立される。それまでのフランス式からドイツ式の陸軍へと変えることが狙いのひとつだった。ドイツは立憲君主制という共通点があり、普仏戦争でフランスを破り欧州一の陸軍を擁するまでになったため、ドイツを範にする。
中尉・大尉で、28歳以下、軍隊経験数年で人格・能力に秀でた人物を対象に3年間の軍事専門家育成のプログラムを実施する。志願者に対して合格者は1割ほどで、筆記試験と面談が課された。
設立当初は参謀(作戦の詳細を詰める役割を担う)の育成だったが、陸軍の規模の拡大と合わせて指揮官、陸軍中枢の要職を担う上級職の育成までも担うことになった。後者は陸軍大学校を卒業し、参謀として経験を積んだ後に参謀本部の部長、課長や陸軍省の次官、陸軍大臣を務めるようになる。


問題点


設立当初は参謀の数を用意するためにドイツ人顧問メッケルの指導の下で戦術論や特定の状況でどう指揮するかを問う実践的な教育を施した。参謀の育成という目標を満たす成果を上げたが、同一カリキュラムで参謀、指揮官、上級職という要求される技能の異なる職種を養育しようとした点に誤りがあった。上級職は、軍事知識だけでなく、政治、経済、外交と広範な知識をもとに総合判断を下すことを求められるが、そういった授業は行われなかった。
各年度の演習では事前に考慮すべき情報はすべて提示されており、情報の収集と活用という視点が欠如していた。兵站についても同様だった。兵站を無視した作戦を立てる土壌となった。
個々の戦術は学んでも、戦術がどう変遷したのかを扱わなかったため、第一次世界大戦後の戦争がどう変化するか、という問いに国力差への対応と併せて軍内で統一した見解が持てず、皇道派と統制派に分派した。
皇道派:従来の戦争と同じく、国家対国家の争いで短期決戦を志向
統制派:国家群同士の戦争で総力戦体制を前提に持久戦、消耗戦を志向


政治と軍事の統合


日清日露戦争では統帥権の独立を意に介さず元老が積極的に軍事作戦に介入したが、昭和期には軍部は統帥権の独立を盾に政治家の介入を拒否した。前者は藩閥出身という同質性と共通思想があり、政軍の統合を果たした。


おまけ


教育の失敗に関連して「戦略不全の論理」を思い出した。日本の大企業が低収益に喘いでいる原因を探るのだが、そこに企業の経営戦略の不在・機能不全を見出す。その理由として、サラリーマン経営者は経営者向けの研修を受けていないからだと主張する。社内で部長級の専門家を育成するキャリアパスはあっても、経営者候補が経営者としての技能を磨く機会がない。経営者向けの教育を受けていないために晴れて経営者になっても自社の現状にあった戦略を立てることができない。

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