見出し画像

絵画における”ダーク”と”不気味”の違いについて

 Pinterestで「ダーク」というカテゴリーを作っています。
 無意識に選別していたのですが、「ダーク」の中にまた、「不安」と「不気味」という言葉を用いてカテゴライズしています。あくまで私の感覚です。

「ダーク」の大まかな定義


 ここでわざわざ辞書を引いて、ダークとは何かを事細かに記すのも阿呆らしいので割愛するが、一般的には色調をより落とした暗いものを表すときに使う。

 普段、私たちが絵やイラストを見たときに「ダークだ」と言ってしまいたくのは画面全体の色調が暗かったり、描かれているモチーフが血生臭く物騒で、闇を持った絵のことである。例えば、バロック画家だとカラヴァッジョ、もっと分かりやすいもので言えばゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』は生粋のダークだ。中野京子さん監修の『怖い絵』展は中学生の頃に訪れたが、あそこにある絵画はどれもダークで興味深かった。
 一言で言ってしまえば「怖い」「不気味」「暗い」ものは全てダークだ。

 しかし、このダークという言葉は作品を批評するのに使うには少し皮肉っぽいような気がする。
 というのも、私たちがダークという言葉を使う時、その絵はあまりにも恐怖が直接的に描かれすぎている。
 先に名前を挙げたカラヴァッジョ、彼の名をGoogleに検索をかけてみる。すると出てくる絵画は首を持っていたり、あるいは切り落としていたり……そもそも題材が血生臭い。ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』は言うまでもない。
 画面全体の彩度と明度が低いだけではなく、描かれるテーマが残酷で、さらにそれは分かりやすく直接的に描かれる。誰が見てもそれは血であり、死体であり、骸骨である。目なんかは特にそうで、十字架などの信仰を表すものもダークとしていいだろう。
 人が”一般的”に恐怖を感じるものがそのままモチーフとして描かれているということだ。


「不気味」「不安」の定義


 ダークが直接的な恐怖を表す言葉であれば、反対に間接的な恐怖も存在するわけだ。それが「不気味」と「不安」である。

 私が絵画に「不気味」「不安」を見出すとき、その画面には過度な誇張・執拗な描写が成されている。
 描かれているモチーフ自体が目立って怖いわけではない、しかし見るとあまりいい気分にならない心地悪さがある。それは、モチーフをそのまま写実的に描こうと思えば良くも悪くも”普通”になるはずのものを過度に歪めたり、それを執拗に画面いっぱいに埋め尽くしてみることによって発生する気持ち悪さである。

「不気味」「不安」の作例

  Matthew Lopas氏の絵画を見てみる。

Matthew Lopas

 画面全体の彩度は低くグレイッシュにまとめられ、階段は1階から2階まで半円を描くように伸び、黄色く光る部屋へと繋がっている。視界が歪んだような過度な湾曲により空間が描かれている。
 この演出により私たちは、ドラッグを使用したような錯覚、めまいを感じる。階段が一体どんな場所へとつながり、この絵画に描かれた視点は一体誰のものなのかが不明である。どこかおかしさを感じるわけである。
 この絵画が安心を表していると考える人はそういないだろう。

 次いで、James Mortimer氏の絵画を見る。

James Mortimer

 James Mortimer氏の作品は一貫して不安を提唱しているような気がする。彼の作品に描かれる人体は妙に伸びきっていて、青白くほんの少しだけ微笑んでいるように見える。
 この作品において、後ろに生え渡っている穀物は遠近感を無視し画面の三分の一を埋め尽くしている。
 私たちが風景を描くとき、普通であれば空気感やふわっと消えていく光を考慮して手前の穀物をはっきりと描き、奥にゆくにつれて明るくぼかし不明瞭に描く。それが一般的なデッサンのメソッドだからだ。
 しかしこの絵では、穀物は確かに奥にゆくにつれて小さく不明瞭に描かれるものの、明らかに基礎的なデッサンに基づいて描かれたものではないとわかる。極限までみっちりと描かれた穀物は立ち上がって見え、人物の異様さよりも穀物に目が入ってしまうくらい執拗に描かれている。私たちはこれを見て、その作者の熱量に恐ろしさを感じる。「何故?」と思う。そこに「不気味」を見出すわけだ。


違和感による「不気味」「不安」

 上に載せた2つの作例を鑑賞するにあたり、共通して言えるのが「違和感」という言葉である。
 Matthew Lopas氏の作品は歪められた視点に対する「違和感」、James Mortimer氏の作品はモチーフへの執拗な描写に対する「違和感」を感じとるわけである。
 この「違和感」が上手く作動することで、絵画はより上質なものになる。
 例えばJames Mortimer氏の絵画と同じ情景を他の人が描いたとして、全く同じように描くはずがない。もし私が描いたとして、人物の不気味さを演出できたとしても穀物はきっともっと簡略化され、ただの背景となるだろう。しかしこの作家は、メインは人物であると思わせながら、穀物に異常な執着を持っているのがわかる。全て一本一本を描く勢いだ。その普通とは異なる、絵の前を通り過ぎた時に一瞬惑わされる「ん?」という感覚が違和感の正体である。
 絵を見た時、私たちはまず全体の持つトーンやモチーフで好きか嫌いかを決める、それがもし自分の好みであればより没入する。その第二段階の状態で、この違和感があればよりその作品へ立つ時間が増えるわけだ。(解釈する余地を与えられるから)
 私が先にダークという言葉が皮肉っぽいと述べたのはこのことで、ダークはあくまでパッと見た第一段階を表す言葉でしかないからだ。暗い色調に物騒なモチーフ、それが第一段階のことである。対して、第二段階を表すのが違和感=不気味・不安のことである。
 要するに、恐怖の質が違うのだ。


直接的な恐怖と間接的な恐怖


 少し話を戻して、直接的な恐怖と間接的な恐怖のことをまとめて表しておく。
 直接的な恐怖とは、ダークのことである。
 例えば血や死体、目や信仰をモチーフに、そのまま画面に表したもののことである。血などのモチーフは、恐怖が直接的である。怖い、と思うものがモノとして描かれている
 つまり、恐怖が説明的であるとも言える。
 対して、間接的な恐怖とは不気味や不安のことである。
 不気味や不安は絵画に感じる違和感のことであり、直接怖いと感じるモチーフではないが、そのモチーフの描写のされ方で恐怖を感じてしまうもののことである。
 つまり、恐怖が説明的でない、詩的であると言える。

あとがき


 恐怖が説明か詩的か好みは人それぞれだが、私は詩的な方がやっぱり好い。

 私が好きな絵画にヒエロニムス・ボスの『快楽の園』がある。
 左からエデンの園、快楽の園、地獄が描かれた三連祭壇画であるが、この中心に位置する快楽の園はまさに「不気味」である。人々は若返る泉を浴びながら喜んだ顔をしたり、人体が絡み合い色が鮮やかなだけに愉快に見える。しかし、よく見ると開脚をして逆さになった人間、若返る泉の周りを興奮しながら回る男たち、その光景が決して普通ではないことを思い知らされる。ずっとみていると最初はさっぱりとした印象を与えていたはずの鮮やかな彩りが気味悪く思え、無理矢理明るさを振る舞っているようにさえ見えてくる。
 しかしそれに対応して描かれているのが『快楽の園』右に位置する地獄だ。
 どちらも寓話性が強く、読み物としての絵画の立ち位置を築いているが、私はやっぱり真ん中の方がいい。それは、この地獄が、私が先に散々言ったダークに当てはまり、それに対し快楽の園は不気味に位置していたからだ。



 私が求めるのは上質な裏切りであり、上質な違和感、上質な恐怖である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?