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ゆうれいを信じたくなる理由について

生まれてこの方、霊的な体験というものをしたことがない。

いや、正確に言えば小学生の時、めちゃめちゃ遠目でのっぺらぼうを見た経験はあるのだが、あまりにもエピソードとして薄い上に見間違いの可能性が高いのでカウントしないべきだろう。

とにかく、幽霊を見たとか死んだ人からのお告げがあったとか、そういう類の経験が一切ない。

だが、霊の存在を信じていないか、と言われればそんなことはない。お墓にお祈りをするときは祖父母がそこにいると思って思いを馳せるし、死んだら何となく天国的なところに行くのだろうなとも思っている。いる、とは言い切れないが、いたら嬉しいぐらいの距離感だ。おそらく自分のような感覚の人は多いだろう。

合理的に考えれば、科学技術が発達した現在、見たこともない"霊"を信じるなど意味のない行為に思えるが、実際は多くの人々が霊の存在をそれなりに信じている。なぜ人々は根拠などないのに、幽霊やお化けなどの霊的な存在を信じたくなるのだろうか。

生物学の用語で「ゴミ箱分類群」というのがある。生物を分類する際、どの分類群にもあてはまらない生物が出てくることがある。これらをまとめて放り込むために作られるのがゴミ箱分類群だ。

この用語を借りるとすれば、霊は「出来事のゴミ箱分類群」だと言えるのではないだろうか。現実世界で起きた事象から科学で説明がつくもの、誰かの策略、単なる偶然など様々な可能性を除いていき、最後に残ったものが霊の仕業とされる。

どうやら人間には、よくわからないことには何かしらの理由を付けないと落ち着かない、という性質があるようだ。未知を未知のままで放置するよりは、何かしらの名前が付いていた方が安心するのだろう。

この理由を強く探し求める、という性質は、生存に非常に有利に働く。少しの違和感でも原因を見つけようとする習性があれば、周囲の危険を速やかに察知することに繋がるからだ。結果そのような遺伝子が生き残り、現在の我々にまで引き継がれてきたのだと思われる。

実際、昔から神話というものは、未知の事象に理由付けを行う役割を果たしてきた。

科学がほとんど発展していなかった古代、台風や洪水、日食や月食といった自然現象の仕組みは、当時の人々にとって全く理解できないものであった。

それでも何とかして理解を試みた結果、自然災害は神様の怒りによって引き起こされる、日食や月食は狼が太陽や月を食べてしまったから起きる、といったような神話が生まれたのである。神話は古代の人々が、彼らなりに世界を理解しようと試みた結果なのだ。

しかし時代が下り、多くの現象は科学で説明可能なものになる。それに伴い、霊的な存在の役割というものは次第に少なくなっていった。

かつて「畏れるもの」だった自然災害は天気予報システムや耐震技術の発達によって、今では「備えるもの」になっている。近代化が進むにつれ、多くの国では宗教の世俗化が進み、儀礼の持つ意味は薄れていった。かつての日本ではよく分からないことは全て天狗や河童の仕業とされていたが、今の日本でそのようなことを言う人などいない。

しかし、どれだけ科学が発展しても、説明できないことは存在し続ける。

科学はあくまで「現時点で最も確からしいと考えられる仮説を組み上げる試み」であり、そこには常に未知の隙間が存在する。我々は、この仮説を限りなく真実に漸近させることはできるが、アキレスと亀のように、完全な真実にたどり着くことは永遠にできない。この隙間から、未知の何者かは常に、ひっそりと我々を見つめている。

世界が理論的に解明されていくにつれ、霊の持つテリトリーは狭くなっていく。しかし、「未知の事象」がいつの時代でも世界に残されている以上、霊の存在が完全に人々の心から消えてしまうことはないだろう。僕はそっちの世界の方が楽しいと思う。

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