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アメフト選手時代のはなし

人生は選択の連続だ。今の自分は過去の膨大な選択の結果から形成されている。過去に一つでも違った選択をしていれば、今の自分とは異なる。これまでに最もその後に影響を与えた選択は、高校入学時に「アメリカンフットボール部に入部したこと」だと思う。

新卒でどの会社を志望するか、社会人でもアメフトを続けるか、独立起業するか、など他にも大きな岐路は幾つかあったが、アメフトをやってきたことが大半の選択に対して影響を及ぼしており、人格形成の基礎となった。

なぜ高校生の私はアメフトをやろうと思ったのか。正直あんまり覚えていないが、推測するに、幼少から様々なスポーツをしてきたが個人競技が多く、男らしい団体競技に憧れたからだろう。当時ガリガリだったにも関わらずだ。むしろガリガリだったからなのかもしれない。ナイスチャレンジだったなと16歳の自分を褒めてやりたい。鎌倉高校にはラグビー部はなく、なぜかアメフト部があった。もしラグビー部があったらラグビーを選んでいただろう。

高校、大学と続け、社会人でシーガルズ(入部時はリクルートがスポンサーを解消した直後で「クラブシーガルズ」というノースポンサー状態だった)に入部し、最後は史上初の4年連続日本一を達成して19年間の選手生活にピリオドを打った。日本代表としての活動や4連覇など、たくさんの素晴らしい経験をさせてもらった。選手としての歩みをここで振り返ることはしないが、どういうマインドで取り組んでいたのか、というような内容を中心に書いてみたい。

引退後に書いて頂いた記事があるのでこちらも読んで頂けると嬉しいです。

まず、アメフトは残念ながら日本においてはマイナー競技である。ネットで調べてみたところ競技人口は、野球とサッカーはおよそ700万人、ラグビー10万人、アメフト2万人とのこと。他の競技を選択していたら日本代表はおろか、日本一という舞台にも立てていなかっただろうと思っている。それでも選手時代は狭い世界ながらもトップレベルだという誇りを持ってアメフト中心の生活を楽しんでいた。

日本にプロリーグは存在しない。社会人のアメフト選手は平日は仕事をし、週末チームで活動するだけのアマチュアである。プレーの対価としてサラリーを貰っている選手は現役当時はいなかった。現在は外国人選手や数名の日本人選手がプロ契約しているようだ。プロコーチは多少存在するが、その多くが他に収入源があるというような兼業状態だと思う。アメフトは選手やスタッフの数が多く活動費が掛かるわりに試合数や集客力が少なく興業として成立しておらず、スポンサーにおんぶにだっこという状態だ。勘定科目は実業団であれば福利厚生費、クラブチームは広告宣伝費だろうか。

最近ちょうど日本TOP3チームのスポンサー企業の決算発表があったのでIRから3月期の数字を記載してみる。左から売上、営業利益、営業利益率の順。

オービック     80,488 百万円  43,238 百万円(53.71%)
富士通     3,857,797 百万円 211,483 百万円(5.48%)
パナソニック  7,490,601 百万円 293,751 百万円(3.92%)

出典:
https://www.obic.co.jp/ir/pdf/financial_result/534q.pdf
https://pr.fujitsu.com/jp/ir/finance/2019/pdf/all.pdf
https://news.panasonic.com/jp/press/data/2020/05/jn200518-1/jn200518-1-2.pdf

業種も事業構造も異なるし当然これだけで企業価値の比較などできないが、BSなどを見てもオービックは凄い。効率的。営業利益率53%!無借金で財務盤石。流石は夢のテンバガー銘柄。ありがとうございます。ついでに直近5年間のチャートも載せておく。

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オービックはクラブチームで、富士通とパナソニックは実業団チームである。オービックの選手は勤務先がバラバラだが(オービック社員も少数いる)、実業団は皆その企業の社員(グループ企業含む)だ。そして実業団の選手は確かオフィシャルに平日昼間に練習をしている。単純に選手としての環境が恵まれているのは実業団だろう。

私もいち社会人としてプレーしていたが、アメフトファーストで考えていたため、より良い競技環境を求めて4回転職した。当時キャリアプランもなければ、ビジネスマンとしてやりたいこともなかった。とにかく仕事に使う時間やエネルギーのリソースを最小限に抑え、どれだけアメフトに回せるかを重視し、定時で上がれること、家から徒歩圏内であることが会社選択の条件だった。今も昔も電車通勤が大嫌いで、社会人1年目で東海道線の満員電車に辟易し、将来は地元で起業してやると誓った。

土日は練習、月曜は中目黒(当時中目黒に住んでいた)の銭湯で交代浴、火曜は表参道ゴールドジム、水曜は恵比寿で飲み会(笑)、木曜はジム、金曜はまったり(シーズン終盤は治療院)、というゴールデンルーティンが選手キャリア晩年ハマった。

ルーティンというのは諸刃の剣で、結果が出ていないにも関わらず変に固めにいってしまうとドツボにはまる。結果に直結しているかの見極めが大事で、ルーティンを微調整する事も含めたルーティンにしなければならない。同じトレーニングメニューを繰り返していても成長曲線は鈍化するので、マイナーチェンジを加え続けないとブレイクスルーしない。

現役当時は油っぽいものや甘いものはほとんど食べなかったし、飲酒も週1のみで暴飲はしなかった。結果として良いフィジカルコンディションを保つことができたが、それよりも節制している自分に対する自信というメンタル面での効果の方が大きかった。ストイックな自分に酔うというのも必要だ。フィジカルとメンタルを試合に向けて研ぎ澄ましていく作業は好きだった。それに比べ今の体たらくはどうだ。走ろう。

人間は隙あらば快適な状態に身を置きがち(いわゆるコンフォートゾーン)で、変化を恐れて現状維持を求めてしまうと一気に退化していく。スポーツもビジネスもそれは同じだ。つい年齢を言い訳に守りに入りたくなるが、現状維持は退化だと言い聞かせてチャレンジ精神は旺盛であらねばならないとは思っている。

選手を引退してアメフトを離れて3年後にアサヒビールシルバースターにコーチとして誘って頂いて参加したこともチャレンジだった。勝利よりも敗北の方が多く、辛くしんどい思いもたくさんしたけれども、素晴らしい経験をさせてもらったし、新たな価値観を得させてもらった。シーガルズの選手としての価値観そのままでシルバースターのコーチになったために、当初は歯痒いことばかりだった。ボランティアで参加して土日費やして負けまくって俺は何をやっているんだと思わずにはいられなかった。

選手からコーチの話になったので一旦ここで閉めます。次回へつづく(?)


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