感情の通訳
息子は感情ネイティブだ。
先日、仕事に出ようとすると「パパ、コーヒー屋さんにいくの?」と声をかけられた。
振り返ると、むずかしそうな顔をした息子が立っていた。
「そうだよ」と答えると、「おうちでお仕事してほしいな、あおくん寂しくなっちゃう」と返された。
どきゅん。なんだこのつぶらな瞳をした子アザラシは。まんまと射抜かれ、カフェにいくのを取りやめた。
うちの息子は感情を隠さない。うれしい、恥ずかしい、悲しくなっちゃう、好き、嫌い、全部言うのだ。
この姿を見ていると、なんだか羨ましいなと感じることがある。
なんというか、大人になると、感情を隠すのがうまくなる。
「うれしい!」と感情が叫んでも、優秀な通訳のような人があいだにいて、「そんなことないよ」とかに変換してくれる。
「寂しい!」は「べつに」に訳され、「悲しい!」は「いつものことだから」に訳される。
夏目漱石にいたっては「愛しています」を「月が綺麗ですね」と訳しているので、そうとう癖のある通訳がいたに違いない。
こうして感情が口から出るころには、カドが取れた、まんまるな言葉となって相手のキャッチャーミットに放たれる。
この通訳がいるからこそ、嫌いな上司にも「さすがです」とゴマをすり、一方的に傷つけられても「わたしが悪いから」と衝突を防ぐことができる。
社会で生き抜いていくためには必要なスキルとも言える。
ただ、この通訳が優秀になりすぎて、たまに自分の本音がわからなくなるときがある。
「あれ、いまの言葉って、本音だっけ?通訳したものだっけ?」
だんだん区別がつかなくなってきて、通訳のほうを「自分の本音だ」と思い込んでしまうことも少なくない。
感情を隠すことに慣れすぎて、どこにあるのか、どう味わったらいいのか、どう表現したらいいのか、わからなくなったりもする。
そんなとき、息子と出会った。
彼は通訳を通さず、ペラペラと自分の感情を話すことができる。
ぼくは寂しいよ。悲しいよ。うれしいよ。
大人よりも自分の感情を知っていて、それを伝えられる。通訳いらずの感情ネイティブだ。
感情を伝えあうということを、いつからしなくなったんだろうか。こっちのほうがよっぽど生きやすそうだぞ。
そう思って、通訳に長めのバケーションを与えることにした。きみは優秀すぎる。ゆっくり休んできてほしい。そんでポンコツになって帰ってきてほしい。
そう伝えると「まあそれなりに楽しんでくるよ」と言っていた。まったく素直じゃないな。「ひゃっほい」でいいじゃないか。
そんなことを考えていると、息子が胸に飛び込んできた。「パパがおうちにいてくれて、うれしい!」相変わらずのネイティブだ。
通訳のいなくなった僕はゆっくりと感情をたしかめてから、「パパもうれしいよ」と伝えた。
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表紙とアナザーカットたち↓
⌇ 絵 えりちゃん(妻)
✎ 文 しみさん(夫)
夫婦で絵本をつくるのが夢です。
日記のようなエッセイを書いています。
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